この作品を、私に多大なるインスピレーションを与えてくれた 綾河くも氏水龍氏 に捧げたいと思う。
 勝手に。


 − 1 −

 週末の大通りを、黒猫が歩く。
 道端で甲高い声を上げながらおしゃべりをしている女子高生たち。肩を寄せ合って歩いているカップル。その脇を早足で越していく男性。
 大勢の人で賑わう歩道の片隅を、黒猫が一人。鉤尻尾を空に向け地に向けゆらゆらとさせながら歩いていた。
 肩を越して背中の中ほどまで無造作に伸ばした髪が、歩を進めるたびにかすかに動く。
 同じく黒い毛に包まれた耳はピンと天を突き、女性のラインをしっかりと形作っている胸をぴしっと張って、この道は自分のものだと言わんばかりの足取りで、黒猫は歩いていた。
 ただし、彼女の持つ黒の中でもとびきり黒い瞳だけは、つまらなそうに世界をただ映している。

「見て、黒猫」
「やだぁ」
 彼女を指差した女子高生たちが、一斉に渋面を作る。
 カップルたちも、彼女を目に留めるや否や、ずっと続けていた「今日二人で見に行った映画のどこが面白かったか」についての談話を打ち切った。
「……せっかくの良い気分が台無しだわ」
「全くだなぁ」
 歩道を急いでいた男は、しかし自分の半分ほどの速度で悠然と歩いている黒猫を、わざわざ大回りに迂回していく。

 この街で彼女を忌避しない人間はひとりもいなかった。



 そして、俺自身がそれを望んでいる。

 生まれた時から、たった一人で生きてきた。
 そして、何の身よりも無い雌猫がたった一人で生きるには、このアスファルトとコンクリートのジャングルは寒すぎた。
 とにかくただ生き続けることに必死で、自分のことだけを考えて生きてきた。
 ただそれだけを考えて生きてきたから、そういう生き方が染み付いた。
 この街で生活する「コツ」を身に付けた頃、自分の幼い頃を思い出すような仔猫を見つけた。
 なんの感慨もわかなかった。この街で生きるということはそういうものだ。そう思った。
 自分にすりついてくる者もいたが、邪険にしていたらすぐに離れていった。
 その方が楽だ。自分でない者を思いやることなど、面倒なだけだ。

 俺は今日もお気に入りの公園のお気に入りのベンチに向かう。
 待ってる者がいるわけではない。ついてくる者がいるわけでもない。
 たったひとりそこに座って、太陽がビルの陰に隠れていくのをじっと見つめる。それが自分の日課だった。
 孤独は苦痛ではない。むしろ、望んでいる。



 だが、黒猫の「いつもの毎日」は、彼女がお気に入りのベンチの前に来たところで終わった。
「ね、ねえもう行きましょうよリュウさん。早くしないとアイツが……うわぁ、出た!」
 普段なら空っぽのはずのベンチには、二人の先客がいた。ちょっと小柄な虎縞の猫と、鋭い目つきをした茶髪の猫。
 そのベンチに、まるでそれが自分のものだと言わんばかりにどっかりと座っている茶髪の肩を、虎縞がしきりに揺すっていた。

「おーおー、アンタがこの辺のボスか。待っとったで」
 黒猫を目にとどめると、茶髪はにやりと笑って立ち上がる。その背はすらりと高く、小柄な虎縞や黒猫の頭が胸の辺りにしか届かないほどだ。
「余所モンか」
「おお。最近コッチに越させてもらったモンや」
 黒猫は顔に比してやや大きめの瞳を、不機嫌そうに細めた。一方の茶髪はそのしぐさも面白そうに、口元をにやつかせている。
「ふーん。随分可愛らしいボスやないか。こんなんにシメられとるんか、この辺は?」
「俺は別に、ボスになったつもりはねー」
「この辺でいっとう恐れられとるんがアンタなんやろ? せやったら、アンタがボスや」
 それから茶髪はにやっと笑うと、親指を立てて自分の胸元を指差す。
「そしてワイはリュウ。今日からお前に代わってこの辺のボスになる猫やがふぅ!?」
 漢が長身を「く」の字に曲げる。彼の腹には、固く握り締められた黒猫の拳がめり込んでいた。
「うげぇほげほげほ……ぐげっ!?」
 前のめりになって姿勢を落とした茶髪の顔面を、黒猫はスカートがめくれるのも構わず、容赦なく蹴り飛ばした。



「喧嘩するつもりなら、グダグダ口上を垂れるな」
 威圧するように組んだ拳を鳴らして、寝転がった余所者に向かってゆっくり歩く。
 敵には決して容赦をしない。記憶にある限り4度目の喧嘩で憶えたことだ。
 そして、とにかく相手は徹底的に痛めつける。そうすれば相手も、それ以外の者たちも、自分を恐れて迂闊に手を出しに来ることもない。ベンチの陰で震えている虎縞の猫のように。
「ガァッ!」
 寝転がっている相手を、さらに蹴りつける。蹴りながら、さてこいつはどれくらい痛めつけてやろうか。そんなことを考えてたとき。
「やめないか!」
 不意に、腕をつかまれて強く引かれた。
 振り返ると、人間の男が険しい目で俺を見ていた。

 誰何するより先に、反射的に体が動いた。
「そいつはもう」
 男がそう言いかけていたところで、掴まれた腕を支点にして体を半回転させ、勢いをそのまま拳に伝える。

 実に綺麗に、俺の拳は男の顔面に突き刺さった。
 殴った俺自身が拍子抜けするほどに。



 黒猫の拳を受けて、その男は身体を「く」の字(ただし、普通とは逆の曲がり方)に曲げ、彼はそのままばったりと倒れた。
 てっきり敵だと思って攻撃したのだろう、黒猫は地面に大の字になっている青年を、当惑の面持ちで見下ろす。一撃で伸びるとは思わなかったのだろう。
 と、彼女の瞳が、地面に落ちていた薄い紙の束……スケッチブックに留まった。
 黒猫は知らないが、それは彼女が殴り倒した青年の持ち物である。
 そして、青年が倒れた拍子に持ち主の手から離れたそれは、何某かが描かれている頁を開いて、地面に落ちていた。

「これ……?」
 その絵に目が行った瞬間。それは彼女にしては珍しく、完全に油断した状態だった。
「……ンだらァッ!」
 起き上がっていた茶髪の猫が繰り出した前蹴りが、無防備な脇腹にめり込んだ。
 小柄な黒猫は文字通り吹き飛ばされ、地面に叩きつけられ、2回、3回と舗装された歩道の上を転がる。
「この、クソメスがァ……ようも好き放題やってくれたなぁ……」
「やった! 流石はリュウさん!」
 さっきまで物陰に隠れていた虎縞が、茶髪の脇で飛び跳ねる。
 だが、茶髪の猫は肩を大きく上下させ、鋭い目を崩さない。
「ダァホ。ヤツはまだ死んどらんで」
 彼の言う通りだった。黒猫は凄みを帯びた目で二匹を睨みつけながら、自分のダメージを確認しているかのように、ゆっくりと立ち上がる。
 黒猫の顔には、昼間のような呆けたような表情も、先ほどの一瞬に見せた少女のような澄んだものでもなく、目の前の相手に激しい敵意を向ける、獣の表情だった。
「こっからが、ホンマのケンカや!」

 茶髪の猫と黒猫の喧嘩は、それから一時間近く続いた。

 − 2 −

「いててて……」
 今日の相手は久方ぶりに骨の折れるヤツだった。大口を叩くだけのことはあった。
 あの手の相手は一度や二度倒したくらいじゃダメだということは、今までの経験から承知してる。
 またしばらく煩わしい日々が続くのか。そう考えた時には、反射的に舌打ちをしていた。
「……取り敢えず、顔洗うか」
 さんざん取っ組み合いをしたせいで、髪も顔も服もすっかり汚れてしまっていた。擦り剥いたところはそれなりに傷むだろうが、このままにしているよりはマシだ。

「む」
 ひとつしかない公園の水飲み場は、残念ながら先客がいた。蛇口を全開にして、ざぶざぶと顔を洗っている。
 最初は人間の浮浪者かと思ったが、それにしてはそこそこ綺麗な身なりをしている。
「はー」
 一足先にそこを占拠してた男はようやく水を止めると、タオルで顔をゴシゴシ拭き始めた。
「おい」
「ん?」
 男が振り向く。見覚えの無い顔だ……もっとも、俺がこの街で覚えている顔など、数えるほども無いけれど。
 俺は男が振り向いた隙に、すいっとソイツと水飲み場の間に割り込んだ。
 蛇口をひねって、勢いよく飛び出した水に両手を浸す。喧嘩の最中にここも擦ったのだろう。チクチクとした痛みを感じた。
 今が夏の盛りで良かった。これが冬場の、身を切られるような冷たい水だったりしたら、冗談ではなく涙が出る。
「なんだ、泥だらけじゃないか」
 ふと、後ろから声をかけられる。チラリと振り返ると、さっきここで顔を洗っていた男だ。若い人間の男手、よく見ると顔に大きな痣があった。
 その時になってようやく、俺はその男が、さっき殴り倒したヤツだということに気付いた。
「なんだお前、さっきのヤツか」
「……き、気付かれてなかったのか」
 男がガックリと肩を落とす。俺は気にせず、手に貯めた水を顔に浴びせた。そのまま蛇口の下に頭を突っ込んで、軽くかき回す。ホントに冬でなくて良かった。

 さっきの男だと認識して、ふと頭の中の歯車がカチリと動いた。あの茶髪の猫と猛烈な取っ組み合いを始める寸前に気になった、ふたつのこと。
「お前さ」
 蛇口の下から頭を上げて振り返る。男は相変わらず、そばの立ち木に半ば寄りかかる姿勢で、こっちを見ていた。
「なんだ?」
「……なんでさっき、俺のパンチをよけようとしなかったんだ?」
 そう。殴る直前、確かにコイツは俺を見て動きを止めていた。でなければ間髪入れずの一撃とはいえ、あれほど綺麗に決まるとも思えない。
 果たして目の前の男は、それを訊かれた途端に口元を引きつらせた。そして、視線を泳がせて「ん〜」とうなる。
「アレか……アレは」
「アレは?」
 すると男は、何故か楽しげに笑いながら、俺の方を見た。

「振り返った瞬間の君に、見とれてたんだ」



「ハァ?」
 大き目の瞳をさらに大きく丸く開いて、黒猫は素っ頓狂な声を上げた。
 そして驚きにピンと伸ばされていた鉤尻尾が弛緩する頃、彼女の瞳は明らかに「バカを見る目」になっていた。
「やっぱりバカにされた……」
 青年は大げさに頭を抱えると、その場に崩れ落ちるようにうずくまった。
 それを見て黒猫は、身づくろいを再開する。手に軽く水を含ませると、その手で土ぼこりに塗れたワンピースをぐしぐしと拭う。
 彼女の身体にフィットするデザインの、丈の短いワンピースは、彼女の手が触れるたびにそこから黒い輝きを取り戻していく。

「……なんだよ」
 一通り汚れを落として、流れていた水を止めると、黒猫は再び背後を振り返り、じろりと男を睨んだ。
 先ほどから変わらず、彼はずっと黒猫を見つめている。
「俺に何か用があるのか? さっき殴ったことの恨みか? だったらアレは、喧嘩の最中に飛び込んできたお前が悪いんだからな」
「いや、別にそういうつもりは無いんだけど」
 青年は滅相もないとばかりに首を左右に振る。それから「ひとつだけ気になって」と言って、黒猫をピッと指差した。
「ずぶ濡れのままでいるつもりなのかなーと思って」
「そうだけど。別に今は、それほど辛くもないしな」
 あっけらかんと黒猫が答えると、青年は持っていた大き目のザックの口を開いて、中からタオルを取り出した。そして、
「あげるよ」
 黒猫に向かって、それを投げ渡した。
 ふわりと広がったタオルを空中でキャッチすると、彼女はきょとんとした表情を作る。
「え? な、なんでだ?」
「いくら夏だからって、もう夜なんだから。濡れたままだと身体に悪いじゃないか」
 青年は笑顔で答えると、それじゃ、と片手を軽く上げて挨拶をし、踵を返した。

 彼が遊歩道の奥に消えるまでその背中を見送ると、黒猫はおもむろに、白いタオルの中に顔を突っ込む。
 温かい。
 春の日差しに身体を任せるような、気持ちの良い温かさ。
「…………」
 他に誰もいない夜の公園で、黒猫はしばし、その温もりにひたっていた。

 − 3 −

 日曜日の大通りを、黒猫が歩く。
 道端で甲高い声を上げながらおしゃべりをしている女子高生たち。肩を寄せ合って歩いているカップル。その脇を早足で越していく男性。
 大勢の人で賑わう歩道の片隅を、黒猫が一人。鉤尻尾を空に向け地に向けゆらゆらとさせながら歩いていた。
 肩を越して背中の中ほどまで無造作に伸ばした髪が、歩を進めるたびにかすかに動く。
 同じく黒い毛に包まれた耳はピンと天を突き、女性のラインをしっかりと形作っている胸をぴしっと張って、この道は自分のものだと言わんばかりの足取りで、黒猫は歩いていた。
 ただし、彼女の持つ黒の中でもとびきり黒い瞳だけは、つまらなそうに世界をただ映している。

「見て、黒猫」
「やだぁ」
 彼女を指差した女子高生たちが、一斉に渋面を作る。
 カップルたちも、彼女を目に留めるや否や、ずっと続けていた「今日二人で訪れた遊園地のどこが面白かったか」についての談話を打ち切った。
「……せっかくの良い気分が台無しだわ」
「全くだなぁ」
 歩道を急いでいた男は、しかし自分の半分ほどの速度で悠然と歩いている黒猫を、わざわざ大回りに迂回していく。

 この街で彼女を忌避しない人間はひとりもいなかった。
 彼女はずっと、そう思っていた。

 いつものように沈む夕日を眺めようと、いつものようにいつもの公園に足を踏み入れる。
 そして今日も、彼女の「いつもの」はそこで終わりを告げた。
「あ」
 黒猫の瞳が、わずかに開かれる。
 噴水のふちに腰掛けて、スケッチブックを広げている人間の男が一人。

「よっ」
 黒猫が声をかけるまで、青年は完全に彼女の集中に気付かず、スケッチブックに筆を走らせることに熱中していた。
 一瞬きょとんとした彼は、声をかけたのが黒猫であることに気付くと、にこりと笑った。
「こんばんは、素敵なおチビさん」
「また殴るぞ」
 はははと笑う青年を苦々しく見て、次いで黒猫は彼の手元に注意を向けた。
「何やってんだ?」
「見ての通り、絵を描いてマス」
 開かれたスケッチブックの中には、黒猫の良く知っている光景──お気に入りのベンチとその後ろの立ち木、さらにそのバックに見えるこの街のビルが、炭の黒の濃淡だけで浮かび上がっている。
 そして絵の隅には、小さく、しかし鉤括弧でしっかりと自己主張をした言葉が書き添えられていた。

 ── 「玉座」 ──

「なんだこれ」
「絵のタイトルだよ」
 彼は物言いたげな視線を黒猫に向ける。
 その視線と、絵につけられたタイトルの意味は、彼女にもすぐに合点がいった。

「画家になりたいと思ってね。色々描いているんだよ」
 彼はスケッチブックのページをぱらぱらとめくる。
 街の風景、自動車、砂場で遊ぶ親子、靴、中年の男性、木立、白と黒だけで描かれた様々な世界が、彼の手元へ現れては消えていく。
「あ」
 黒猫が声を上げた。青年の顔には苦笑が浮かぶ。
 そこに描かれていたのは、けだるそうに空を見上げている黒猫の横顔。

 てっきり何か言われるだろうと思っていた青年は、黒猫のリアクションがないことに胸を撫で下ろしながらも妙に思った。
 下から黒猫の様子を伺ってみると、彼女はつぶらな瞳を開いて、じっと絵を見つめている。
 青年は知らない。昨日、彼が殴り飛ばされた直後に、黒猫がこの絵を見て動きを止めたことを。

「これ……俺か?」
「そうだけど」
「……いつの間に」
「一週間前、くらいかな。君は気付いてなかっただろうけど、結構前からこの公園で絵を描いてるんだよ……うわっ!?」



 俺はソイツの手からスケッチブックをひったくると、自分の手でページを手繰り始めた。
 普通の絵の中に混じってところどころに、俺を描いた絵があった。
 やはりベンチに座っていたり、或いは立ち姿であったり、他の猫と取っ組み合いをしている絵もあった。

 自分の顔は、水溜りや噴水の水面などで知ってはいたけれど、けれど、こういう風に自分の姿を見せられるというのは。
 今までに一度も感じたことのない、むずむずとした焦燥が、俺の頭の中にみるみる溢れていった。

「えっと……似てなかったかな?」
 声をかけられて、俺はハッとソイツの方を振り向いた。
 そして、どうしてだろう。この男に見られていることが、なぜだか急に耐えられなくなった。

 ソイツに向かってスケッチブックを投げつけると、俺は一目散に走り出した。
「え……あ、ねえ! ちょっと、待っ……!」
 背中に声をかけられた気がしたが、そんなもの知ったことか。

 − 4 −

 どうしていいか、分からなかった。こんなことは、初めてだから。
 俺を見る他人の目はいつも、嫌悪か、敵意か、恐怖だった。
 そして、それが当然のことだと、いつからか自分自身がそう思っていた。
 きっと俺自身、そういう目を向けられるのが相応の、汚れた黒猫だと思っていた。

 だから、自分のことをこんなに美しい姿に見ていた目があるなんて、知らなかった。思ってもいなかった。

 その目にさらされ続けることが怖くなって、俺は逃げ出した。
 自分がそんな目を向けられるような猫だなんて、思ってなくて。



「はぁ……はぁ……」
 息が切れて、立ち止まる。
 夢中で走っていたので気付かなかったけれど、どこかの裏路地に入っていたらしい。
 ぺたんと座り込んで深呼吸をしたら、少しだけ落ち着いた。

 恐かった。
 そう。あの時自分の心の中に湧いてきた気持ちは、それが一番近いと思う。
 車に轢かれそうになった時とか、武器を持った人間に追いかけられた時とか、そういう「恐い」では無いけれど。

 あんなに綺麗な目で見られていたのに気付いたことなんて、本当にさっきが初めてのことで。
「違う」
 俺は、そんな綺麗な目で見られるような猫じゃない。皆から嫌われ蔑まれ恐れられる黒猫だ。
 決してアイツの手の中にあったような、見惚れるような猫じゃない。
 ああ、でも、それもたぶん、違う。
 心の中のもやもやが晴れない。ぐるぐると渦を巻いて、とても気分が悪い。

 そうでもなければ、声が聞こえるまで気付かないなんてこと、あるわけない。



「や、やっと……追いついた……」
 薄暗い路地裏を抜けて聞こえてきたかすれ声に、黒猫は飛び跳ねるように背後を振り向いた。
 彼女の視線の先で、青年は大きく肩を上下させていた。公園にいた時に比べて幾分服が汚れている。どこかでつまづいたのかもしれない。
 黒猫は慌てて逃げ出そうとして、目の前が袋小路になっていることにその時になって気付く。三方は雑居ビルの高い壁。とても登れるものではない。
 男に向き直ると、彼女は尻尾を逆立てて威嚇しながら、自分では精一杯凄みを帯びさせたつもりの声で怒鳴りつけた。
「なっ、なんだよ! なんで追いかけてきたんだ!」
 しかしその声色には、努力の甲斐無くあからさまに動揺が表われていた。

「なんで?」
 彼は黒猫の問いかけに一瞬キョトンとすると、困ったような怒ったような驚いたような、曖昧な表情を見せた。
「なんでって、それは……君がいきなり逃げ出したからだよ。どうしていきなり、逃げたりなんて……」
 青年の問いかけに、黒猫は言葉を詰まらせる。視線を逸らしてうつむくと、彼ははぁ、と嘆息して、
「……勝手に描いたから、怒ったのかな」
 黒猫は力無く、ふるふると首を左右に振る。青年は、それじゃあ……と首をかしげると、
「僕の絵が下手だったから、怒った」
 今度はばっと顔を上げると、ものすごい勢いで首を左右に振り回した。それだけは何としても否定したいということだろうか。青年は少しだけ嬉しくなって、口元をわずかにゆるめた。
 それから彼女は少しうなだれて、う〜っと低い声で唸ると、ぼそっと

「……んな……じゃ、ない……」
「え?」
 聞き取れなかったらしく、怪訝な顔で訊ねる青年から、黒猫は目をそらすと、
「あんなの……俺じゃ、ない……」
 青年はたっぷり2秒ほど沈思黙考してから、
「俺じゃない?」
 訊ね返すと、黒猫はん、とうなずいた。

「俺は……あんなに、綺麗じゃない。
 もっと小汚い、泥だらけの黒猫だよ。
 絵が悪いってんじゃなくて、いや、絵は、すごく良いと思った。
 俺はその、そういうの、分からないけど……綺麗だって、思ったよ。
 でも、俺はその、だから……そんな綺麗に描かれるような、黒猫じゃぁない……」

 少しだけの沈黙と。
「もしかして」
 半分ほど興趣の混ざった問いかけ。
「照れてる?」

 黒猫は飛び跳ねるように、いやまさしく飛び跳ねて立ち上がると、ものすごい勢いで青年に詰め寄って、
「な、ななななななんでそうなるんだよ! おいこら! あまり変なこと言ってるとまた顔面にパンチだぞ!」
 青年は、今度こそ楽しそうに微笑んだ。彼女の態度があまりに「図星」だと告げていたので。

「この絵に描かれている君が綺麗だって思ったなら、その美しさはまぎれもなく君の持っている君自身の美しさだよ」
 え、とだけ口を開いて、それから黒猫は赤面して言葉を無くす。と、毛先があちこち少し跳ねている黒髪の上に、青年がぽんと手を乗せてきた。
「うぁっ!?」
 大げさに驚く彼女の頭を、青年は「なでなで」する。
「卑下することなんてないよ。君は綺麗だ。僕はそれをありのままに描いただけさ」
 照れて、怒って、困って、慌てて、いったいどうしたらいいのか分からなそうな顔をしていた黒猫は、上目遣いで彼を見上げると、
「そう……なのか?」
 青年はにこりと笑って
「うん」



 今まで、ずっと独りで生きてきて。
 自分以外の誰かを、何かを信じたことなんて無くって。
 でも、こうして初めて見る、心からの笑顔と、
 初めて感じた、頭を撫でる手の温もりは。

 信じていい。そう、思った。

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