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「そういえばさ」
 あれから二日経った夜。
 公園の真ん中にある噴水の、その縁に腰を下ろしてこちらを見ている黒猫に、彼女から少し離れたところに座ってスケッチブックを開いている青年が不意に問いかけた。
「名前、聞いてなかったよね」
「名前?」
 言われて黒猫は右手を口元にあてて考え込む。さっきまで絵のモデルとして座っていたという記憶は空に輝く月まで吹き飛んでいるが、青年の方も気にしていない。彼の頭の中では、もう絵の中の景色が完成しているのだろう。
 しばらくむーんと考えていた黒猫のしっぽがへにょっと曲がって、池の水面を軽く叩いた。
「無いんだよな、名前」
 猫は普通、育てられた親(或いは人間)に名前を付けられる。
 だが、ずっと天涯孤独で生きてきた彼女には、彼女に名前を付けてくれるような者はいなかった。
「クロとかチビとか呼ばれることはしょっちゅうだけど、そんなの名前にしたくないしなぁ」
 それから猫はぼんやりと空を見上げながら、名前ね、名前……とぶつぶつ呟く。
 青年は鉛筆を動かす手を止めることなく、
「じゃ、僕が名前を付けてもいいかな」
 え、と黒猫は青年の顔を見る。彼は普段と変わらない穏和な笑みを浮かべて、自分の手元をじっと見つめている。
 彼女は別に誰にどう呼ばれようと今まで気にしたことは無かったし、青年にそう申し出られた時も、特段の思いを感じるようなことは無かったが、
「良いぜ。でも変な名前はナシだぞ」
 何となく、頬がゆるんだ。

 実はもう考えてあるんだ。そう言って彼はスケッチブックを閉じた。

「Holy Night」

「どんな夜よりも美しい聖なる夜。
 君のその、綺麗な黒毛にちなんで」
 黒猫を指さして、青年は笑う。
 そして、彼女の感想は。

「長い」

 確かに猫の名前はたいがい一語でつけられるし、彼の考えた名前は真っ当な猫の感性で言えば彼女の言葉通りなのだが、見る間に表情を崩し頭を抱えてうなだれる青年の様子に、彼女もさすがに「しまった」と思った。
「い、いやその、悪くは無いと思うぜ……長いけど。うん、意味もなんとなく良いと思う。言い辛そうだけど」
 青年はますます落ち込んだ。
 黒猫はううむとうなると、右手を口元にあてて考える。しっぽをぷんぷんと振って、彼が先ほど添えた言葉を反芻する。
 せわしなく左右に動いていたしっぽが、ピンとまっすぐに天をついたのが、きっかり9秒後。
 彼女が横目でちらと覗くと、青年はまだ落ち込んでる。やれやれとため息をひとつ、彼女は噴水のへりの上に、ひょいと立ち上がると。

「セーヤ」

 え、と顔を上げた彼を得意そうに見下ろして、黒猫はにっと笑う。
「聖なる夜、なんだろ? だから『セーヤ』だ。
 うん、良い名前だと思うぜ。俺は気に入った」
「いやでも、セーヤじゃ男の子の名前みたいじゃないか? りゅうせいけーんとか」
「なんだソレ」
「……なんでもない」
 黒猫はふぅんと一瞬だけ不思議そうな顔をすると、しかしそれもすぐにどうでもよくなったようで、20cmほどしか幅の無い噴水のへりをとんとんと軽快に蹴って、彼の間近に立つ。
「それで、さ」
 大きな黒い瞳で、黒猫は彼の顔を覗き込むと、
「お前の名前、聞いてなかったよな」
 言われてみて、それもそうだと青年は苦笑した。腰を上げて、今は自分より背の高い黒猫に向き直ると、彼は小さくお辞儀をして。
「杢代コウヤです。よろしく、セーヤ」
「コーヤ?」
「そう。コウヤ」
「コーヤか。なんかセーヤと似てるな。セーヤと、コーヤ」
 それから黒猫は、またにかっと笑う。
 彼女は笑うと瞳が見えなくなるくらいに目を細めると、青年はその時に気がついた。
「セーヤ、コーヤ、セーヤ、セーヤ、コーヤ。ふふ、ははははは」
 自分と青年の名前を連呼しながら、黒猫はぴょんぴょんと飛び跳ねる。
 その様を青年は、夜だというのにまるで太陽を見ているようなを見ているような目で、ずっとずっと見ていた。

 翌日の昼間、彼のスケッチブックには、月光の下で飛び跳ねている黒猫の絵が描き加えられていた。
 「聖夜」
 その横には小さく、タイトルとしてそう添えられている。

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