結論から言えば、この日が来るのは必至のことであり、それまで過ごした時を考えると遅すぎたと言えるかもしれない。


「初めまして、月那さん。私は百々野研究所の使いの者です」
 インターホンの向こうから、彼の住居のチャイムを押した男はそう名乗った。
「百々野研究所?」
「はい。貴方が預かって下さっているP.O.T.『PSY-k』についてお話がございまして。
 申し訳ありませんが、少々お話をさせていただけませんか?」
 月那は承諾の旨を伝えると、彩姫に「お客さんだ。少しだけ準備を頼むよ」とだけ伝える。
 小さく頷く少女が、先ほど主人の発した「百々野研究所」という単語を耳にした時にハッと息を飲んだのを、彼は耳にしている。

「実はですね、貴方もお気付きかもしれませんが……『PSY-k』は正式にリリースされたポットではありません」
 グレーのスーツ上下に眼鏡をかけた中年男性、絵に描いたようなサラリーマン姿の男は、おもむろにそう切り出した。
 彼の隣で彩姫が僅かに顔を逸らす。知ってほしくなかった、そんな素振りだ。
 けれど月那はその事実を既に知っていた。出荷時に発行されるタグが、彩姫には無かったからだ。
「諸々の事情があって研究所から持ち出され、巡り巡って月那さんの手に渡ったと……そういう次第で。
 なので、唐突な話で恐縮なのですが……我々の元にPSY-kを返して頂けないでしょうか。
 彼女はまだ完成しておりません。そして、近々行なわれるポットのトライアルコンテストまでは、あまり時間がありません」
 男の言ったトライアルコンテストとは、世界中の研究所・メーカーが集まって新作のP.O.T.を披露する場だ。
 多くのディーラーがそこで各P.O.T.の性能を見定め、投資や受注が行なわれる。それまで無名だったブランドが一躍有名になった例も多々ある。

 きゅっ。
 月那の右腕に、かすかに引っ張られる感触。
 テーブルの下で、彩姫の手が、月那の袖を握っていた。
 視線を上げる。彼女の顔はかすかにうつむいて、いつもの無表情。一見すると神妙に話を聞いているようにみえるが、この小さな意思表示だけで、月那は彼女がどう考えているかを理解した。
「そちらの事情は分かりました……少し、時間を下さい」
 その言葉を「別れを惜しむ時間が欲しい」と解釈したのだろうか。男は頷くと「では、また後ほど」と頭を下げた。


 客人が帰るのを見届けると、彩姫は月那の顔を見上げた。彼女にしては珍しい、感情をあらわにした表情。不安。
 月那はそんな彼女に優しい微笑を見せると、少女の不安が少しでも薄れるように、やわらかな髪の上に手を置いて軽く撫でてやる。
 それから彼は携帯電話を手に取ると、番号を指で打ち込む。その動きにはよどみがなく、メモリーに記録させていないその番号を月那がハッキリと記憶していることを表していた。
『はい』
「俺だけど。頼みたいことがある」
 電話の向こうの相手は、月那の言葉を聞くなり黙り込んだ。それから、遠慮がちに言葉を紡ぐ。
『……それは、つまり』
「そういうこと……今の生活を捨てて、そっちに帰ってでも、守りたい子が出来た」
 刹那の沈黙の後、「分かりました」と返事をした電話の相手に、彼は用件と期限を伝え、通話を切った。
 それから彼はもう一度、彩姫の頭を優しく撫でる。
 目を細めて主人の手の感触にひたっている彩姫を見つめながら、月那は何かを惜しむように苦く笑った。


 一週間以内にと頼んだものは4日で手に入った。


 百々野研究所。
 都会とは言えないが田舎とも言い難い閑静な町中にはやや場違いな中型建築の並んだ敷地内に、その日一組の男女の来訪があった。
 受付の中年女性が会釈をすると、十代半ばくらいの少女が控えめに首を動かして応じる。一方の男はそれに対しては何も返さず、ストレートに自分の用件を伝えた。
「所長を呼んでくれ。話は通してある。『月那が来た』と伝えれば分かる」

「お待ちしておりましたよ、月那さん」
 応接室に通されて間もなく、スーツ姿の中年男性が訪れる。その後ろには白衣を羽織った眼鏡の男。
「初めまして。私がこのラボの所長を務めます百々野です。後ろは主任の……」
「自己紹介は良い。さっさと用件に入ろう」
 目の前の男たちより一回り以上は若い青年は、しかし自分が今この部屋の主であるかのように横柄に男たちを制する。所長も主任も眉をひそめて不快を露わにする。
 だが、次に月那の発した一言で、彼らの憤りは瞬時に雲散霧消してしまった。
「単刀直入に言おう。この研究所を我々のものにする」
 少女が膝の上の鞄を開けて、何枚もの書類を取り出す。その間に、ぽかんと口を開けたままの所長と主任に向けて、月那は口元に僅かな笑みを見せると、
「部下を使ってね、色々と調べました。
 百々野研究所。現代のP.O.T.開発のスタンダードであるカスタムメイドではなく、ある程度の共通規格を備えたユニットを増産するという画期的な基軸を打ち出した……。
 が、リリースされたユニットたちの単体性能は既存のカスタムメイドP.O.T.に及ばず、増産ラインが出来上がっていない為本来のコンセプトを活かすことも出来ない。
 それ故に大きなスポンサーもつかず、今まで不遇の状態にあった……」
「ひとつ訂正して頂きたい」
 主任が眼鏡をキラリと光らせる。その奥の瞳は開発者としての誇りと自信をたたえていた。
「現在の最新鋭ユニット……つまり、貴方の仰る『彩姫』の性能は、条件さえ整えば既存のカスタムメイドP.O.T.と比較してもなんら遜色はありません」
「それでいい」
 月那は鷹揚に頷く。そうでなければ自分がこの研究所を手に入れる意味が無い。そういう意味での首肯だった。
 彩姫が鞄から書類を出し終え、未だ唖然としている所長の前にすっと差し出した。子供の悪戯などではない、紛れもなく正統な契約書。
「き……キミはいったい」
 それを見てもまだ頭が状況に順応していないのだろう。震える声で呟いた所長は、契約書の先頭に書いてある青年の素性を認めて、さらに驚いた。
「……錦会、会長!?」
「その通り。マルチウェイコングロマリット『錦会』会長、月那。それが今貴方の目の前に座っている青年の素性だ。
 貴方もご存じの通り我々も色々な事業を展開していますが、P.O.T.開発については後進でしてね。あなた方のような技術集団を欲していた。
 なので、もう一度言おう。この研究所を我々のものにする。
 それとも、拒否するか? この研究所の財政が火の車なのも調査済みだ。まもなく行われるトライアルでスポンサーを見つけなければ、もう閉鎖もやむなしなのだろう?」

 所長は口の中にたまった唾をごくりと飲み込み、しばし黙考し、その後懐から万年筆を取り出すと、月那に向かって静かに手を差し出した。
 青年はその手をしっかりと握り替えした。


「マスター……ひとつ、よろしいですか?」
 帰りの車の中。珍しく彩姫の方が話しかけてきた。
「なんだい?」
 脱いだコートを畳んで膝に乗せ、その上に頬杖を付いて、月那はややうつむき気味の、いつもの角度の彩姫の顔を覗き込む。
「……マスターは、とても偉い立場にいる方、なのですよね……でも、つい一週間前までは、お住まいも小さなアパートでしたし、お仕事とかも……」
「ああ……一週間前までは、『錦会の会長』じゃなかったからね。正確には休職していたんだけれど。
 月那個人の手で君を守ることは出来そうになかった。だから錦会の力を使うことにした。
 勿論その為にはグループのメリットになる方法を選ばなければいけないから、結果としてこういう形になったんだ」
「……休職?」
 小首を傾げて鸚鵡返しにその単語を呟く彩姫から視線を外して、月那はすっかり夜の装いになった空を見上げる。
「毎日大変だから仕事を全部放り出した。秘書に会長代理を任せてね。
 実際一人になってからは随分と気楽に生活出来た。会長なんかやってるよりよっぽど楽しかったよ」
 窓ガラス越しに見える苦笑。それを見た彩姫の口元が僅かに引き締まる。
「……それを……私の、為に……捨てられたのですね」
「そう」
 月那は彩姫に向き直ると、少女の小さな肩に手を回して、自分の胸元に抱き寄せた。
「一週間前にも言ったよ。今の生活を捨てて、そっちに帰ってでも、守りたい子が出来たってね」


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