すっかり暖かくなった風が、さあと静かな音を立てて幻想郷を吹き抜ける。
 荷物を片手に道を歩いていたその少女は、風の迫ってくる気配を感じると、その場に立ち止まって瞳を閉じた。
 彼女の服をはためかせ、長く伸びた白い髪を揺らし、心地よさそうな微笑を浮かべた顔を撫で、風は少女の身体を通り抜けていく。
 ああ、気持ちいい。
 赤い瞳をゆっくりと開きながら、藤原妹紅は頭の中で呟いた。
 彼女の眼前に広がるのは、一面の鮮やかな緑の、その絨毯をあちらこちらで鮮やかに彩る色とりどりの花々。
 それは春爛漫の幻想郷の景色。

 と、彼女の鼻の上から、薄紅色の小さな花びらが一片、ひらりと落ちる。
 たった今吹き抜けていった風が、抱えていた春の欠片を妹紅の上に置いていったのだろう。
 未だ宙をひらひらと舞う花弁をつかみ取り、それから少女は自分の往く道の先に視線をやった。
 そこは咲き誇る桜の園。
 幻想郷の何箇所かにある桜の群生地、その中でも妹紅のお気に入りの場所のひとつ。この花びらもきっとそこから飛んできたのだろう。
 少女の視線の先にある桜の園は、まだ半里ほども離れたこの場所からでもその盛大な様が見て取れるほど、見事に花を付けていた。
 それを見ているだけで、じきに自分の全周を埋め尽くす光景が容易に想像出来た。
 新緑に溢れる幻想郷の中で、ここだけが別の世界かと見紛うような薄紅色一色の世界。
 頭上を見上げれば、そこは空の全てを埋め尽くすかと思わせるような、桜の花の天蓋。
 絶えず降り注ぐ桜吹雪を浴びながら飲む酒の味が、じわりと舌の上に想起されたところで。
「ああもう、これだけはのんびりとなんてしてられないわ!」
 歓声ひとつ、たんと地面を蹴って、妹紅は勢いよく走り出した。

「うっはあ……」
 一歩脚を踏み入れた瞬間、言葉を失うほどの驚きと感動の洪水が妹紅の視界と脳内を埋め尽くす。
 駆け寄りながら想像していたよりもさらに壮麗な景色が、今目の前にあった。
 この季節、この場所には何度も訪れたことがあるが、今年は例年になく見事なまでに花を付けている。
「はは、凄い! 凄い凄い凄い!」
 頭上を仰ぎながらくるくると回る。本当に、世界の全てが桜色一色に染まってしまったような錯覚すら起こす。
 身体がバランスを失う寸前に、支えていた脚を地面から浮かす。持ってきたお酒をダメにしてしまわないように抱え込んで、妹紅は
その場に仰向けに倒れ込んだ。地肌に敷き詰められた花びらの絨毯が、彼女を優しく受け止める。
 まずはしばらくこのまま、桜の花を堪能しよう。
 そう思って地面に大の字になった、時だった。

「あんたも花見?」

 唐突に。それは唐突に、妹紅の視界に侵入してきた。
「……永琳!?」
 驚いて跳ね起きる妹紅を見下ろして、八意永琳は「ええ、その永琳」と、しゃなりとうなずく。
 濃い紅と深い藍の彼女の衣装は、桜色の風景の中でよく映えた。

 一際見事な二本の桜の樹の根本のそれぞれに腰を下ろして、妹紅と永琳は向かい合う。
「で、ここにいるってことは、あんたも花見?」
 視線が合うと、妹紅はすぐに口を開いた。永琳はその問いに、ちらりと微笑を見せる。
「ちょっと違うわね。正確には、私『たち』も花見」
 途端、妹紅の表情が強張った。
 永琳に連れがいるということならば、十中八九はあいつがいる。
「……姫様たちが参られるのは夜からだけどね。あの方は夜桜の方が好きですから。私が今ここにいるのは、場所取り係」
 にこりと笑顔で伝える永琳に、妹紅はふーんと気のない返事を返した。
 今はまだ太陽も空高く。永琳の言葉の通りなら、輝夜は今しばらくはここを訪れない。
「じゃ、輝夜のヤツが来る頃には退散するかな。夜桜は別のところで楽しもう」
「あらら。そのまま輝夜様に噛みついてくるつもりかしらと思っていたのに」
 永琳の意外そうな表情。軽口ではなく、本当にそうと思っていたんだろう。
 妹紅は少し憮然とする。確かに常日頃から殺してやろうと牙を剥く相手だが、そこまで見境無しと見られるのは心外だ。
「するわけないでしょ。ここで私のスペルカードを使ったら、この見事な桜は全て灰と炭になってしまうじゃない。
 ダメダメ、そんなもったいないこと出来ないって」
「もったいない、ねえ」
 妹紅から視線を外し、桜吹雪の洪水をぼんやりと眺めながら、永琳は小首を傾げた。
「私は別にそうは思わないのだけどね」
「ええー!?」
 今度は妹紅が素っ頓狂な声を上げた。彼女の言葉を理解出来ないということが、声だけでなく彼女の表情にも見えている。
「あんた、どうしてそんなこと言えるわけ? 元々桜を見るには絶好の場所なのに、しかも今年はこんなに見事に花を付けているのに」
「だってねえ」
 永琳は片手をぺたりと自分の頬に当てる。
「好きでないのだもの。桜」
「……やっぱり月人の感性って理解できないわ」
「あら。輝夜様もウドンゲも桜は好きだけど」

 妹紅は立ち上がると、桜の幹に寄りかかりながら片手を開いた。すぐにひらりひらりと、数枚の花びらが彼女の手のひらに落ちてくる。
「なんで好かないのかしらね。こんなに素敵なのに」
 永琳も立ち上がると、妹紅がそうするように手のひらを広げる。
「『桜は散るから美しい』と言うじゃない。それが理解出来なくてね」
 彼女の手の上にもすぐに、数枚の花びらが舞い落ちる。



「では、散らない桜は美しくないのかしら?」
 どこか寂しそうな微笑を妹紅に向けながら、永琳は手の上の花びらをぐしゃりと握り潰した。



「散らない桜、ね」
 妹紅は顔を上げる。
 そこにあるのはまるで冬の空。真白い空から真白い雪が降り注ぐ様に似ていた。
 この花びらの一片一片、その全てが樹上より身を落とすことなく、未来永劫咲き続けるというのならば。
 赤い赤い瞳をついと細め、妹紅は永琳の言葉を噛み締めて、
「――――ふ」
 不意に、少女の口元がつり上がった。
 嘲笑の態を取った顔で、妹紅はずっと自分を見つめていた永琳に向き直る。

「ずいぶんとまあ、つまらないことにとらわれているものね、八意永琳。『月の頭脳』なんて呼ばれるあんたらしくない」
「そうかしら」
「そーよそーよ。当然でしょ」
 桜の花びらを受け止めていた手を、妹紅はひらひらと振る。ぱっと花びらが弾けて、彼女の足下に舞い落ちた。



「だって、そんなことを言う奴は、永遠に散らない桜なんて見たことが無いに決まってるもの」



 一瞬呆気にとられた顔をしていた永琳は、すぐに苦笑いに似た表情で、ふっと息を吐いた。
「なるほど……確かにそうね。私だって、地上でも月でも、そんな桜をお目にかかったことなど無いのだし」
 見たことが無いものを美しいだなんて言える筈がない。
 だから、散る桜しか見たことの無い者たちが、そんな馬鹿げたことを口にする。
 桜は散るから美しい、などと。

 今年の桜は格別に美しい、と妹紅は思う。
 長い長い永い間、たくさんの桜の花を見ていれば、こんな思いがけないこともある。
 長い長い永い間、生き続けているからこそ、見られるものも、知ることの出来るものもある。
 今年の桜はまた散ってしまうが、これからも沢山の桜を見続けていったならば、決して散る事なく永遠に咲き続ける桜にだって、いつかは出会えるかもしれない。
 その時が来たら、目の前の蓬莱人を呼んで、せっかくだから輝夜も呼んでやって、今日のことを思い出そう。
 本当に散らない桜を見た時、永琳は何と言うだろうか?

 妹紅は自分が持ち込んだ酒瓶を手に取ると、栓の蓋を開けた。ぽん、という澄んだ音が、音も無く降り注ぐ桜吹雪の中に響き渡る。
「まあ、せっかくだから一杯どう?」
 そして、空いた瓶の口を、永琳に向けて差し出した。
「散る桜を眺めながら飲む酒も、悪くはないよ」

 本当に、生きているって素晴らしい!




後書き

 第二回東方最萌トーナメント跡地にて行われた『花見』をテーマとした何でも大会で寄稿した作品です。
 つまり、以前に挙げた「プリズムリバーサイド」よりもだいぶ前に書いたものの筈なんですが……最後の締めがちょっと甘いから加筆して載せようと思っておいてずーーーーっと忘れてた話でした(;´∀`)

 妹紅と永琳。
 「太公望」もそうですが、なんとなく妹紅には輝夜より慧音より永琳を絡ませたいと思ってしまうんです。
 二人とも、何もかもを飲み下した上で自分なりに今を生きてる感じがして、すごく似てるなあと(輝夜はまた二人とは別のステージに立ってる印象で、うーん、うまく言えないんですが)。

 桜は散るから美しいと言うが、散らない桜は美しいのか?
 貴方はどう思いますか?

 何はともあれ。
 ここまで読んで頂いたことに、心から感謝いたします。
 ありがとうございました。

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