西の空に沈みかけた太陽は幻想郷の全てを柔らかな朱色に染める。
 博麗神社の境内にたたずむ巫女、博麗霊夢の緋色のリボンとスカートも、その光を受けて赤色を一層赤く燃え上がらせている。
 こんなに何もかも真っ赤だとついあいつを連想するななどと考えながら、彼女は今日も参拝客の一人も訪れなかった博麗神社の境内の掃き掃除をしていた。
 そして箒の先が境内の端までさしかかった時、少女は神社の隅っこの隅っこで、それを見つけた。
 膝を抱えて座り込んでいる、見慣れない少年の姿。
「やあ」
 のんきな調子で声をかける。努めてそのような声色を作ったわけではなく、単なる地で。
 声をかけられた少年が、膝の間にうずめていた顔を上げる。霊夢はふむと小さくつぶやく。予想通り全く見覚えがない。そもそも少年の格好からして幻想郷のトレンドとはかけ離れている。
 つまりこの少年、『外』からの来訪者だ。
 たぶん空間のほころびにうっかりはまってしまったのだろう。ここには時々そういう者が訪れてくる。
「さしずめ気が付いたら見知らぬ神社にいて帰り道も分からなくて途方にくれてるってところかしら。そういうことならもう安心、私が案内してあげるから。さ、一緒に帰りましょう」
 見たところ自分より年下の少年に向けて、霊夢は微笑みかける。きっと帰り道が分からなくて途方にくれているのだろうと思っていた。
 けれど、少年の答えは霊夢の予想をするっと裏切るものだった。
「帰りたくない」

 霊夢は少し考えた後、とりあえず博麗神社の社務所兼住居にまで少年を案内することにした。
 神社の隅っこというのはお茶を運ぶにも話し合うにも向かないスポットだ。

  〜○

 曇った表情の少年に湯飲みを渡すと、霊夢は自分も縁側に座って、入れ立てのお茶を一口飲む。お茶請けはおなじみの博麗神社謹製紅白まんじゅう。
「それで――帰りたくない、っていうのは?」
 横目で少年を見つめる霊夢。視線を感じた彼は膝を抱える手に少し力を込めて。
「関係ないだろ」
「あるわよ。私はこの神社の巫女ですから、ここで起こるあらゆる問題について首を突っ込む権利があるわ」
 他人の問題に首を突っ込む程度に暇だった巫女はそう言うと、今度は身体ごと少年に向き直る。
 何だよそれ、と苛立たしげに呟いた少年はしばらく沈黙を続けていたが、じっと見つめる霊夢の視線に耐えきれなくなったのか、ぽつぽつと語り始めた。

 要約すると、彼は天才少年であるらしい。
 幼い頃からヴァイオリンを嗜んでいた少年はめきめきと力をつけ、ついにはリサイタルを開くまでになったという。
 けれど彼は自信と余裕を無くしていた。自分ひとりで大勢の前に立ち、沢山の視線を浴びながら演奏するという重圧に、まだ未成熟の少年の精神は限界近くまで摩耗していた。
 そして明日に控えた公演のリハーサルを行った今日の午前中、不安がとうとう堰を切った。壇上で少年の表情と手指は無惨に凍り付いてしまった。
 午後の予定を放り出して少年は逃走。人気のない近所の神社裏でひとり、どうにもならない苦しさと悔しさを抱えてうずくまっていたとのこと。
 話を聞いて、彼はその「近所の神社裏」でうずくまっている間にたまたまこちらに呑み込まれてしまったのだろうと霊夢は納得したが、少年に対してはそれは黙っていることにした。彼自身、幻想郷に迷い込んでいることに気付いていない様子だからだ。ならば変に混乱させることもないだろうと彼女は考えた。

「帰りたくないんだ」
 自分の身の上話が終わった後、最後に少年はもう一度、絞り出したような声で呟く。
「帰れば、弾かなきゃいけないから?」
 霊夢の問いに、少年は小さくうなずく。
 んーむ、と少女は小さくうなる。普段はお気楽な連中ばかり付き合ってるものだから、たまに深刻な話を聞くと頭がすぐについていかなくなる。ええい恨むぞ、と脳裏に次々と浮かび上がるお気楽な面々に向かって小さく吠えてみるテスト。
 それから彼女は、やれやれと口の中で小さく呟いた。人生相談は巫女の仕事じゃないけれど、ここに迷い込んできた以上はうちの氏子だ、大切にしないと。
 少年の苦悩は理解した(つもり)。要は精神の問題だ。自分が今見下ろしている小さな肩にのしかかっている色々なものを祓ってやればいいだけだ。祓うと言えば巫女の仕事っぽいなとのんきなことも考えつつ、霊夢は紡ぐべき言葉をあれやこれやと推敲し。
「迷っちゃったのね」
 やがてぽつりとそう口にする。
 少年が顔を上げて、何のことかと霊夢の顔を見る。
「今までは普通に出来ると思ってた。でも、今度は出来ないかもしれない、うまく弾けないかもしれないって思っちゃった。だから手が動かなくなってしまったのよ」
 だから、処方箋はただのひとつ。
「『出来る』と思えば、出来ないことなんて何もないわ。『自分なら出来る』そう思って臨めばいいだけのこと」
 その言葉に顔を上げた少年に、彼女は優しく微笑みかける。
 少年は眉根を寄せて、そんな簡単なことじゃないよ、と弱々しく呟く。再び視線を落とし、身体を縮こまらせて。
 そんな少年に、霊夢は優しい口調で語りかける。
「人間の意志にはね、そういう力があるの。
 出来ないと思ってしまったら、本当は出来ることでも出来なくなっちゃう。
 でも、『出来る』と思えば。強く思えば」
 そして少女は、赤く焼けた幻想郷の空を指差し、
「空だって飛べるわ」
 少女は平然とした口調で、当然のこととばかりに言うものだから、少年は逆にムッとした表情を浮かべた。からかわれているのだと思った。
「そんなの、出来るわけがない」
 声を荒げて食ってかかると、霊夢は柔らかく微笑んで、これまた意外な答えを返した。
「そうね」
 あまりにあっけなく否定を肯定されたものだから、少年はいよいよ本気で、馬鹿にされているのだと確信する。
 けれど、霊夢は相変わらず穏やかな表情で言葉を継ぎ、自分の言葉が矛盾していないことを簡潔に証明してみせた。
「出来るわけがないと思っていれば、飛べるわけなんてないもの」
「そんなの屁理屈だ」
 不機嫌そうに唇を尖らせる少年に向けて、霊夢はあははと笑うと。
「飛んでみる?」
 縁側からふわりと飛び出して、くるりと少年に向き直り、まるで「このお菓子おいしいよ、君も食べる?」とでも言うような軽い調子でそう言って、彼女は少年に向かって手を伸ばす。
 その仕草はどうしようもなく自然で、その瞳はどうしようもなく透き通っていて。だから少年はそれ以上、彼女の言葉を否定しなかった。
「簡単なのよ?」
 促すようにそう言う霊夢の笑顔を見ていると、彼女の言葉は本当のことなのだと、いつの間にかそんな気がしてきた。

  ○〜

 霊夢の手に引かれるまま、少年は夕陽で赤く染められている境内の中心に立つ。
 その少年に背中を向けて立つ霊夢は、『その言葉』を口にしようとして一瞬ためらう。『その言葉』は本来自分の領域ではそぐわない言葉であり、知人の何人かが口にするべき言葉だった。
 それでも、今のこの相手に対しては『その言葉』を使うのが一番分かりやすいし、それより分かりやすい言葉ってのは多分無いと思うので、知人一同を代表してヒヒヒと勝ち誇った笑みを浮かべる金髪の少女の様を何となく脳裏に浮かべながら、少年に向き直る。
「君に『魔法』をかけてあげるわ」
 それから霊夢は自分が羽織っていた赤いベストを脱いで、少年の肩にふわりとかける。ベストは小さかったが、少年も小柄だったのでなんとか彼の両肩を覆う程度に広がった。鼻をくすぐる少女の匂い、何故だか春を連想する匂いに、少年はほのかに頬を赤らめる。
「これは魔法のじゅうたんの代わり。君が空を飛べるようになる、蝶の羽」
 蝶。羽を持つ生き物として鳥などよりも先に名前の挙がるものでは無いと思ったが、でもそれは目の前の巫女の印象によく似合っているとも少年は思った。
 下襲姿になった霊夢は少年の背後に回ると、彼の両肩に手を置いて、耳元で静かに囁く。
「目を閉じて」
「……本当に、飛べるの?」
「君がそれを望むならね」
 出来ると信じれば空だって飛べるのだったら。
 飛びたかった。
 思いのままに空を飛びたかった。
 身体を縛り付ける重力から解き放たれて、自由に羽ばたきたかった。
 だから彼は言われるまま目を閉じる。
「今のあなたは蝶。幻想の郷の空に白い羽をはばたかせて舞う白い蝶」
 言葉が頭の奥に染み込んでいく感覚。それをより強く感じようと、少年は口の中で小さくつぶやく。
 僕は蝶。白い蝶。
 ひらひらと羽を動かして空を飛んでいる白い蝶。
 ふと、頬に風を感じた。それから、肩にかけられた少女の上掛けをゆるゆると引かれる感触。
 少年がそれに気づくのを待っていたかのように、耳元でもう一度、少女の声が聞こえる。
「ほら、下を見てみて」
 少年は薄く目を開く。
 何かが見えるよりも先に、まず明るさを感じる。
 瞼の裏にまで染み込んでくる明かりは、先ほどまでに感じていたものよりいささか強い気がする。影の中から日向に出た時のような感じがした。
 そして少年は大きく目を開く。


 夕陽を浴びて赤く染まった神社の屋根と一枚一枚がとても小さく見える石畳の上に箒が一本転がってる鳥居はここからだと形がよく分からない神社を囲うように茂る木々はここからだと小さくてその先にはまったく見覚えの無い不思議な景色が


「え?」
 少年はハッと顔を上げる。
 夕日が西の彼方に沈み、空はいよいよ青色から藍色へ変わろうとしている。
 きょろきょろと辺りを見回して、少年は自分のいる場所がどこであるかようやく認識した。自宅の近所の神社の、境内の裏手。人が来ることが滅多にないから、落ち込んだ時などによく駆け込む秘密の場所。
「……なんで、ここにいるんだっけ」
 ここに来るまでのことを、少年は思い返そうとしてみる。けれど記憶はぼんやりとして定かではない。何か夢を見ていたような気もする。
 そして、理由は分からないけれど、不思議に心が軽かった。
 よくよく考えてみると、少し前まではとても不安な気持ちを抱えていたような気もする。けれど、今はそんなものは微塵も感じない。
「変なの」
 少年はクスッと笑いながらつぶやいて、それから腰を上げる。
 その時、かすかだけれど、さわやかな香りをかいだような気がした。
 花咲き乱れる野原のような、春の香り。

 翌日。
 観客たちが椅子をくまなく埋め尽くした大きなコンサートホール。その舞台袖に立つ少年は、これから自分が向かう、今は蓋の開かれたグランドピアノだけが置かれた壇上を見つめている。
 その瞳には重圧の色はまったく見えない。むしろ周囲の大人たちの方が緊張した雰囲気を纏わせているのに、彼だけはまるでこれから友達の家に遊びに行く子どものような表情をしていた。
「そろそろお願いします」
 ホールのスタッフがやってきて、周囲の大人たちに告げた。同時に、観客席を照らす照明がゆるゆると落とされ、ざわめきが次第に消えてゆく。
「準備は出来ているかい?」
 タキシードを着た中年の男性が声をかける。少年のヴァイオリンの教師である。
 少年は先生の質問に対して朗らかにうなずくと、はい、としっかりとした声で答えた。
 そして彼はゆっくりと、ステージの中央に向かって歩き出す。
 据え付けられた楽譜台の前に立つと、自分より先に壇上に上がっていた指揮者とピアノ伴奏者に一礼、それから観客席に向かって一礼をする。
 少年はもう分かっている。これから始まるコンサートが大成功の内に終わることを。
 だって少年は、強く強く信じているから。
 よどみない操作でヴァイオリンを構え、羽毛が落ちるような柔らかい動きでA線に弓を触れさせる。
 一度息を吸って、吐いて、それから弓を持つ手にわずかに力を込めて。

  〜○

 白玉楼の庭園を飛び交っていた虫たちがいっせいに墜落する。魂魄妖夢はその一部始終を見届けると、天を仰いで嘆息した。
「やめてやめてその呪詛を止めて」
 リリカ=プリズムリバーが耳を押さえながら空中をごろごろと転がる。
 霊夢が弓を動かす手を止めると、その場に集っていた、奏者を除く一同が一斉に安堵の息を吐いた。
「いきなり『弾かせて』って言い出すから貸してあげたけれど」
 彼女の抱えるヴァイオリンの本来の持ち主であるルナサ=プリズムリバーは顔を手で覆って渋面を隠し、
「死ぬかと思ったわ」
 その妹メルランはそう言ってけたけたと笑った。
 まだ顔から驚きの色が剥がれ落ちない西行寺幽々子などは、
「貴方は楽器で死を操ることが出来るのかしらね」
「なによー」
 さんざんな言われように霊夢は唇を尖らせて、それから再びヴァイオリンを構えて、
「霊夢! またソレを弾くつもりなら叩ッ斬るわよ!」
「楽器は叩ッ斬らないで」
「そうそう。腕だけ、腕だけ」
 色めきたつ一同に向かって挑戦的に微笑んで、言った。

「『出来る』と思えば、出来ないことなんて何もないわ」

 そして博麗の奏でる典雅な音色に合わせ、幽霊たちのコーラスが再び西行寺の庭に響く。



後書き

 すし〜さんの中略(笑)「願い」というお題に沿って一筆。
 背景色は作中のイメージに合わせて夕焼け色にしてみました。相変わらず色気の無いベタ塗りなのに妙にこだわってます。

 博麗霊夢には何モノにも束縛されないという素敵な能力があるが、それをさらに「例えばそれは紅魔郷のレミリアであったり妖々夢の幽々子であったりする、何かに縛られている存在を解き放つ能力でもあるのではないか」という深読みをしたところからどんどん妄想がふくらんで、今回こういう話になりました。
 彼女は願いを叶えない。願いがすぐそこにあることに気付かせてくれる、それだけ。

 ヴァイオリンなのは私の趣味です。三姉妹で一番好きなのは次女なんですが、トランペットのリサイタルって聞いたことないし。

 何はともあれ。
 ここまで読んで頂いたことに、心から感謝いたします。
 ありがとうございました。

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