そこは幻想の郷の片隅にある森の中。
 陽の光を髪の毛の一筋ほども通さないばかりに生い茂った枝葉に空を覆われ、暗く暗く暗いその森の中に、ガサリ、ガサリと下草を分けながら進む、一人の少女の姿があった。
 飾り気の欠片もない質素なツーピースの上から、ぼろ布とも見紛われそうな外套をかぶったその少女は、手にしたランタンの明かりを頼りに、顔の上半分を覆い隠すほどに伸びた前髪の奥から、自分が今歩んでいる獣道の先をうかがっている。
 少女の表情には何も浮かんでいない。
 数歩先も見通すことの出来ない深い闇の中を歩く恐怖も、これまで歩いてきた行程で積み重なった筈の疲労も、はたまたそれらを吹き飛ばすほどの、信念だとか希望だとかそうした正の感情もない。
 全くの無貌であった。
 或いは、それは余裕ゆえの無貌なのかもしれない。
 獣道、文字通り獣しか通らないようなその道は当然人が歩くような道ではなく、大の大人ですら手こずる筈の悪路である。だがその道を、少女はまるで足下が固められた道路を歩いているような淀みない足取りで進んでいる。
「――っ」
 唐突に、少女の目の前が閉ざされた。大きく成長した下生えが、その枝葉で道を遮っていた。正確には、それは獣にとっては遮蔽物にはあたらない。道を阻まれるのはより大きな通行者、人に類するような大きさを持つ者だけである。今の彼女のように。
 少女は小さく息を吐くと、ランタンと共に手にしていた鉈でパシパシと枝を払い落としていく。ほっそりとした体つきの少女が手に持つには無骨にすぎるそれは、既に長年にわたって使い込まれた様相で、幾重にも歯をこぼしていた。そしてその表面にはうっすらと、何かどす黒い液体を流した跡があった。
 少女は急がない。疲れをためないように手首をうまく回し、鉈の重さを操る。やがて人一人ほどが通れるくらいの穴がその茂みに穿たれ、少女は最後の枝に向けて鉈を振り落とし、

 刹那。
 ザッと草を揺らして、森の底の湿った地面を蹴り、闇の中から飛び出す影。
 ソレはぐわばりと顎を開く。闇の中を唯一照らすランタンの明かりが反射して、ソレの唾液に濡れた牙はらんらんと輝き、開かれた口の奥は赤々と燃える。
 ソレは先ほどから少女の様子をうかがっていた。何か重さのあるものを振るっていることをずっと観察していた。そして、その重さのあるものが動き出した瞬間、すなわち次に軌道を変えるまでにもっとも時間のかかる瞬間を狙って少女に襲いかかったのである。

 パシリ。
 少女の手にしていた鉈が、最後の枝を落とした。
 少女の首はとうに背後を振り返り、瞳の中にソレを捉えている。だが少女の腕は伸びきっていて、手にした鉈をソレにむけて振るうには間に合わない。もう片方の手もランタンを握っており、今から他の何かをするには遅すぎる。
 ソレは頭の奥で、自分の牙が少女の肌と肉を食い破り骨を砕く感触を予感し、歓喜した。

 刹那。
 歓喜にあふれていたソレの脳天に、少女は手にしていた鉈を振り下ろしていた。
 ただ鉈の重さに任せた一撃ではない。その軌道には微塵のブレもなく、彼女の手が完全にその得物を操りきった、故に生まれた必殺の一撃。
 その一撃を、一瞬前に振り下ろしたばかりの鉈と腕から、少女はソレに叩き付けていた。
 ソレは、絶対に放てない筈の一撃を何故少女が振るうことが出来たのかを、しかし疑問に思うことはなかった。
 その時既に、ソレは頭を砕かれ、絶命していたからだ。

「……ああ」
 少女がつまらなさそうに呟く。手にしていた鉈の刃が、その中途で消失していた。
 限界が来たのだ。今のように、この森の中で襲いかかってくる妖をたびたび叩き潰していたせいだろう。
 まあいいか、と少女は半分になった鉈を放る。彼女にとってはどのみち、しばらくは必要でなくなる道具だった。
 茂みに穿った穴の奥に、空が見えた。
 少女は先ほどまでと変わらない足取りでその穴をくぐり、森を抜ける。
 天には星。澄んだ夜空には満天に星が輝き、その中央では満月がぎらりと輝いている。
 地には湖。微風を受けて静かに揺れる海面には、空より映し込まれたもうひとつの満月が輝いている。
 そして、その湖のほとりには、屋根も壁も外壁も紅い大きな洋館が、月の光を受けて紅く輝いている。

 その光景を瞳に収めた少女の表情には、しかし、やはり何の色も浮かばなかった。




 − 鬼剋天咲 −




「ふぁあ〜あぁ〜」
 紅美鈴は、門番という自らの役職にはひどく似つかわしくない大あくびをした。
 彼女は人間ではない、人に近い姿を持つ妖怪であるが、それでもあくびをする時というのは人間と同じく、ふたつの場合しかない。すなわち、寝起きであるか、暇な時であるか。
 そして、今の彼女が該当するのは後者。
 元々、この屋敷……紅魔館を訪れる者はひどく少ないのだ。ここの主の力は絶大であり、特にこんな満月の夜に彼女に対して何かしようと考える者なんて、人間にも妖怪にもいやしない。いるわけがない。
 さらに言えば、この館の住人というのはいずれも周辺の妖怪にひどく畏れられていて、故に敬われてはいるもののわざわざお茶を飲みに訪れようと考える者などもやはりいない。後は自分を含めて彼女らに仕える者ばかりなのだからそんな者をわざわざ訊ねようとしてくる者なんてのもやっぱりいない。
 つまりこの屋敷の門番というのはひどく退屈な仕事なのである。それも、今夜のような満月の晩ならば。

 だが、この夜は違った。
 美鈴はすぐに気付いた。こちら、すなわち紅魔館の正門に向かって近付いて来る小さな明かり。
 ゆっくりと向かってくるのが何者であるか、彼女は夜闇に向かって目をこらす。完全なナイトビジョンを持つわけではないが、彼女とて立派な妖怪、それなりに夜目は利く。小さな灯りの奥にある影を、彼女はすぐに見て取った。
「女……か?」
 歩いてくるのは、人間で言えば十代半ばをやや過ぎた頃の少女。ぞろりと伸ばした前髪のせいで表情はよく見えないが、身にまとった服や外套はみすぼらしく、何か地位や声望のあるような者には見えない。
 或いは近場の人間の集落が、紅魔に捧げる生贄として送りつけたのだろうか。にしてももう少し良い身なりをさせるだろうし、だいたいその手合いは供の者がいるのが常のことだ。
 結論。この少女が何者なのかは分からない。結論之二、そんな怪しい者を館に近づけないのが自分の仕事。
「止まれ!」
 夜の空気に凛と響く声で、美鈴はその少女に制止を呼びかけた。そして左手で密かに懐を探り、己の気を込めたスペルカードが確かにそこに存在するのを確認する。何者かも知れない相手、油断大敵。
 美鈴の声を耳に入れたのだろう、少女が立ち止まる。彼我の距離はおよそ十歩。
 月明かりと少女の持つランタンの明かり以外に、正門に灯る灯火の光が新たに少女を照らす。その顔に何の表情も浮かんでいないのが、美鈴の心をざわつかせた。
 そして、もう一つの事実が、なおさら美鈴に不審の念を抱かせる。
 妖気の欠片も感じない……彼女は、人間だ。

「人間がこんな夜更けに、この紅魔館に何の用?」
 声をかける美鈴は、全身を脱力させている。不測の事態に瞬時に対応できるように。
 しかし少女は茫漠とした所作で、紅い煉瓦を積んだ塀と、その奥に佇む洋館を見上げて、
「紅魔館?」
 再び美鈴を見て、小首を傾げる。
「……お前、紅魔館に用事があって来たんじゃないの?」
 普通は誰であれ、用事がある先の家のことくらいは知っているものだ。妖怪だろうと、人間だろうと。
「さあ……森を抜けたら、大きなお屋敷が見えたから……」
 少女の声は、どこか生気を感じない。それが正体の見えない言葉を紡ぐものだから、美鈴にはなおさら不気味に感じられる。
「このお屋敷は、どなたのものなの?」
「レミリア=スカーレットさまのお屋敷よ」
 近隣の者なら人妖を問わず知っていようことを、この女はぬけぬけと訊ねてくる。何だか自分が仕えている主を侮辱されたような気がして、美鈴の声に少し険が込められた。
 しばらく屋敷を見上げていた少女は、少し考える素振りをして、それからうん、と小さくうなずいた。
「ここでいいか」
「何が?」
「……ここなら私の探し物が、見つかるかもしれないと思ってね」
「何を探しているのかは知らないけど、人間の探し物なんてここには無いだろうし、あってもお前に渡したりはしないと思うわね」
「あるかどうかは私が決める」
 少女が一歩踏み出す。

 同時に、美鈴の右手が跳ね上がった。その手から彼女の『気」が虹色の礫として放たれ、少女に襲いかかる。少女はそれをこなれた動きでかわし、美鈴目がけて地を蹴る。
 美鈴は音もなく足を滑らせて、拳法の構えを取った。そして不敵に笑う。
「弾幕よりも近接戦を好むの? でも、格闘なら私にもそれなりの覚えが」



 刹那。



 美鈴の目の前に少女が居た。
 紅い夜の中で、青い瞳をぎらぎらと輝かせて。
 少女は笑っていた。
 凄惨な笑みを浮かべて、美鈴を見下ろしていた。

 美鈴は困惑する。
 この少女は――いつの間に間合いを詰めた? いつの間に私のすぐ側にまで近付いていた?
 私は――

 私は、いつの間に、斬られていた?
 いつの間に、彼女の手にした刃を受けていた?
 いつの間に、これほどの深手を受けていた?

 そして――
 この少女は、何故――



 十重二十重に切り裂かれた全身から血煙を噴き出して、美鈴は地に倒れ込んだ。
 その鮮血の一端は二振りの鋭い刃にまでつながり、刃は少女の手に握られながら、月明かりを映して銀色に輝いた。
 少女は、倒れた美鈴には目もくれず、守り手を失った門をくぐる。
 異変を感じ取った館のメイドたち――美鈴同様、紅魔館の玄関を守る者たちが、手に手に武器を構えて侵入者に殺到し、それに向けて妖気をまとめた弾を放ち……涼しい顔の少女が通った後には、その全員が自らの血にまみれて庭に横たわっていた。

 彼女の顔が笑みに歪んでいたのはそれから少しの間だけで、後はまた森を歩いてきた時のような無表情に変わっていた。
 その時と違うのは、右手に持つのがランタンではなく、銀色に光るナイフだということで。
 その時と違うのは、左手に持つのが枝打ち用の鉈ではなく、銀色に光るナイフだということで。
 その時と同じように、彼女の命を奪おうと襲いかかる者たちがおり。
 その時と同じように、彼女は襲いかかる者たちの命を奪っていく。
 足取りは変わらず、まるで足下が固められた道路を歩いているような、淀みない足取り。




 その夜。
 レミリア=スカーレットは屋敷を出て、夜の散歩を楽しんでいた。
 紅い月の輝く夜は紛れもなく彼女の夜。彼女は気の赴くままに夜を駆け、空に輝く自らの半身を愛でていた。
 存分に夜を堪能し、そして自分の居城へと帰ってきた彼女を迎えたのは、普段の紅魔館のたたずまいから酷くかけ離れた喧噪だった。多くのメイドたちが庭に横たわり、その傍らに座り込んだ者が或いは懸命に応急処置に臨み、或いは二度と取り戻せない喪失に天を仰いで嘆いている。
「何の騒ぎ?」
 庭に降り立ったレミリアが一言放ち、同時にメイドたちが凍り付いたように息を止める。主人の帰還にも気付かぬほど彼女たちは必死であり、また恐慌を来していた。
「何の騒ぎ、と訊いたのだけれど」
 レミリアは近くにいたメイドの一人にそう問う。問われたメイドはヒッと喉を鳴らし、
「な、なな何でもございません! お嬢さまのお気を煩わせるようなこ」
 全てを言わせずに、レミリアは自分の背中を飾る真紅の翼で、そのメイドを跳ね飛ばした。
「この騒ぎを『何でもない』と言うような不見識なメイドは、この館には不要よ」
 それきり彼女には目もくれず、館の主は周囲を見回してから、別のメイドに問いかける。
「美鈴はどうしたの?」
「隊長は……侵入者に深手を負わされて、一命は取り留めましたが、まだ意識が戻っておりません」
 そのメイドは幾分冷静で、そう言うと力無く上げた手で庭の片隅を示した。特徴的な赤い髪が芝生の上に広がっているのを確認して、レミリアはうなずく。彼女の翡翠色のチャイナドレスが、どす黒く染まっていることも。
「……侵入者。そう、侵入者だったのね」
 その時になって、レミリアはようやく合点のいった表情を浮かべた。
 今の今まで、てっきり妹のフランドールが何かの拍子に地下室を飛び出して暴れているのだと思っていたのである。





 館は大きく、その全貌は中からでは伺いようが無かった為、彼女は気まぐれに歩いていた。
 初めは雲霞のように襲ってきたメイドたちも、今は一人として顔を出そうともしない。
 まあ、当然だろうと少女は思う。何せ襲いかかってきた者は一人残らず全身を切り裂かれ、床に敷かれた紅い絨毯を自らの血でなお紅く染める役目を与えられたのだから。
 時折こちらを睨め付けるような視線を感じたが、少女は特に気にしなかった。そのメイドに視線で人を危める程度の能力があるなら別だが、特に身体に変調も見られないなら、違うのだろう。
 偶然にも厨房に行き当たったので、遅い夕食を摂ることにした。火を熾すのは面倒なので、そのまま食べられそうなパンや腸詰め、果物などを適当に頂戴する。
 ちぎったパンを口に放り込んで咀嚼すると、舌の上に微かな塩味が広がる。それを飲み込むと、空っぽだった自分の中に、何かが満ちてくる感覚がある。
 そして、そのことに安堵を感じる自分がおかしくて、笑いがこみ上げる。自嘲の笑いだ。
 自分はいったい何をやっているんだろう。
 魔女とそしられ、生まれ育った場所を追われ、どこにも自分の居場所を見つけられずにいた。
 最後の望みを託して訪れた場所。幻想の郷。
 しかしそこでも自分は異形のままであり、人間達が自分を見る目も異形を見る目そのままだった。
 失望と諦観を胸に抱いて、放浪の旅を続けた。
 どこでもよかった。
 自分の居場所が欲しかった。

 人は私を怖れ続けた。
 妖は私を襲い続けた。
 居場所を探すことにすら疲れた。
 いつか私は、別のものを求めていた。

 でも、その探し物は、本当は簡単に手に入るのに。
 自分ではどうしても、それに手をかけることをしたくなかった。
 だから私は今も、こうして悪足掻きをしている。
 大した矛盾だとは自分でも理解している。
 それでも私は、自分の内でない場所で、それを見つけたかった。

 これほど大きな館の主ならば、それなりの力を持っている妖怪だろうと思った。
 私の求めているものを、探し出してくれるかもしれないと思った。





 報告用のメイドを一人連れて、レミリアは廊下を歩く。
 いつもの紅よりなおさら紅い屋敷の絨毯は踏みしめるたびに余計な湿気が音を立てて、ひどく不快だ。
「……メイド部隊の損害は以上です。屋敷の運営には辛うじて足りる程度の人数は残っていますが……」
 ちなみに辛うじて足りるというのは、個々人が相応の無理をしての話である。つまり相当数をやられたということだ。外部の者にこれほど屋敷を蹂躙されたことなど、今までにあっただろうか。五指には足るほどだと思うが。
「パチェはどうしているの?」
 庭には、この館に住まう友人の魔女の姿は見えなかった。とすれば、自分の居城に引きこもっているか、もしや……
「パチュリー様は『自分が出向く』と仰っておられたのですが、喘息の発作を起こしておりましたので、お付きの者たちが総出でお留め致しました。今は幾分落ち着かれた様子で、図書館で大人しくしているとのことです」
「事が終わったら、その者たちを全て私の前に呼び出して頂戴。私の友人の命を助けた者たちを労おうと思うわ」
 レミリアは短く息を吐く。紅き魔王として怖れられる彼女の別の一面。友の身を案じる少女の顔。
「それにしても、これほどまでに私の屋敷を荒らしてくれた者……いったい誰なのかしらね」
 侍従に問いかけるようでいて、その言葉は自分自身に向けられた問いだった。
 紅魔館を我が物顔で荒らす者。フランでなくこれほどの惨状を起こす者といえば誰であろう。冥界に住まうという死蝶の姫君か、境界を操る化け狸か、それほどの力の持ち主でなければこれほどの様を為せよう筈もない。
 しかも、脳裏に去来した者がそのまま犯人である可能性は全て否定されている。生き残ったメイドの報告によれば、侵入者は「人間だ」という。ならば誰だ、博麗か? いや、今の博麗の巫女がこれほど見事に刃を扱うなど聞いた試しがない。せいぜいが針程度のものだ。

「僭越ながら……」
 横を歩いていたメイドが頭を下げる。
「意見を許すわ」
 振り返らずに発言を促す。メイドがもう一度頭を下げるのを気配だけで感じる。
「美鈴様がうわごとで口にしていたことがございます」
「美鈴が?」
 この紅魔館の中にあって、紅美鈴はこのメイドたちを遙かに凌ぐ使い手だ。力持つ者の証たるスペルカードを持ち、そこに自らの世界を描くことを可能としている、数少ない存在である。
 その彼女がああまで無惨に破れているということに、実は少なからず驚きを持っているのであるが、それは決して表に出さず、レミリアはちらりとメイドを振り返り、発言を促す。
「おそらく侵入者のことであろうと思います……『人間では、ない』と」
「人間では、ない」
 まぶたの上に細く引かれた可憐な眉を、レミリアはくっと曲げた。メイド達の報告によれば紛れもなく人間であるということであるのに、最初に侵入者と接触したであろう美鈴はそれを「人間でない」と言っている。まるで謎かけだ。半人半獣、或いは半人半幽? そんな筈はない。人以外の何かが混じっているなら、当然人以外の何かの気配がする筈だ。たとえソレがその時は人であったとしても。
「出過ぎた発言を致しました。私どもも意味を図りかねているのです」
「いいわ。美鈴が『人間ではない』と言うなら、人に在らざる何かを感じ取ったということでしょう」
 侍従が無言で頭を下げる。

 予感はしていた。
「ここでいいわ。貴方は戻って、皆の手助けをして頂戴」
 侍っていたメイドに来た道を戻るよう指示し、レミリアは一人、歩を進めた。
 この館のどこに行けば侵入者に出会えるか。予感はしていた。
 いや、運命を感じ取っていたとでも言うか。

 両開きの重い扉を軽々と押し開け、レミリアはその部屋へ歩を進める。
 そこはかつて、謁見室として作らせた場所だった。
 窓の少ない紅魔館においては特異と言える、巨大な天窓をしつらえた部屋。
 今日のような夜には、その天窓いっぱいに紅い満月を映し出すこの部屋は、紛れもなくこの館の主の為にある部屋であった。
「お待たせしたかしら」
 やはり紅い絨毯の敷かれた先、レミリアの立つ位置より一段、二段高い場所に据えられた豪奢な玉座。
 少女はそこに座っていた。





 対面してみれば、まあみすぼらしい。よれよれの外套を羽織ったまま、下は薄汚れた質素な上下。月光を跳ね返して輝く銀色の髪は手入れをすれば美しいだろうに、伸び放題の荒れ放題。
 せめてもう少し瀟洒な侵入者であればよかったのにと、レミリアは小さく嘆息した。こんな身なりの者に玉座を許すまでに館を蹂躙されたなんて、なおさらにプライドを傷つけられる。
「貴方は?」
「この屋敷の主、レミリア=スカーレットよ。お嬢さん。
 それよりも、人に名前を訊ねるのなら、まず自分が名乗るべきではなくて?」
 少女は立ち上がると、ゆっくりかぶりをふる。
「私には名前なんて無いわ。そんなもの、とうの昔に捨てた」
「あら。それは困るわ。名前を呼ぶときに困ってしまうもの」
 自らの背格好に似合いのおどけた様子でレミリアは笑う。
「なら……そうね。今はただの殺人鬼とでも。それとも、切り裂きジャックとでも言った方が似合うかしら」
「あら、おかしい」
 口元を隠してレミリアはクスクスと笑う。少女が眉を動かしたのは単に訝しんだのか、それともレミリアの反応を不快に思ったのか。
「Jackは男の名前でしょう。女ならMaryと言うべきだわ。ああ、でも少し言い辛いわね、メアリ・ザ・リッパーって」
 段上の少女は、レミリアに向かってゆっくりと歩を進める。一歩、一歩。
「あら、どうしたの。気に入らなかった? 私は女の子をジャックと呼ぶ方が気に入らないのだけど」
 余裕の笑みを浮かべるレミリアの問いに、だが少女の反応は何もない。黙々と歩を進める様は、獲物に狙いを定める殺人鬼の様。そこには怒りも喜びも哀れみも悲しみも、一切合切の表情がない。
「……つまらないねえ。切り裂きジャックとか名乗るくらいなら、もうちょっと楽しんだ表情を見せたら?」



 刹那に至る刹那。
 レミリア=スカーレットの真紅の瞳が、それまでよりわずかに大きく見開かれる。

 少女はその小さくも屈強な身体の中に「運命を操る程度の能力」を有する。然るに彼女の瞳はこれからの運命を予見する能力を有する。
 小さな顔の上の大きな瞳は、確かに自分の次なる運命を捉え、現れた光景に驚きを覚えた。
 そこに見えたのは、目の前の少女の手によって鮮血を散らす自分の姿。

 だが。だが、おかしい。
 運命とは「訪れるべくして訪れる事象」である。ひとつの運命には、そこに至るまでのプロセスが必ず存在するものだ。
 だが。今彼女が目にした運命の中で、少女はその中途を一気に省略して、彼女の身体に刃を突き立てていた。



 刹那。
 少女の紅い瞳が、もう一回り大きく開かれる。
 自分を傷つけるその運命が、既に確定、逃れようのない定めとなっていることに。
 自分の身体に凶刃を浴びせる運命を持つ少女は、まだあれほど遠くに



 迸る熱。
 少女が手に握るナイフ、彼女の髪と同じ、銀色に光るそれが、幼き悪魔の胸に深く深く沈み込んで。
「こう笑えばいいのかしら」
 レミリアに息がかかるほどの間近で、少女の口がにいっと裂ける。



 ――この違和感は、何だ。



 絨毯を蹴破らんばかりの勢いでレミリアはその場から飛び退き、少女の二撃目から身をかわす。
 少女はナイフを構え直す。鮮やかな紅に濡れた切っ先が、刹那、空中に美しい円弧を描いた。
 殺人鬼の動きに油断無く視線を走らせながら、レミリアは刺された胸に手をやる。
 致命傷ではない。
 吸血鬼に一撃で致命傷を与えるには、銀のナイフでなく、別のもので胸を貫かなくてはいけない。
「貴方が持っているのが白木の杭だったら、今頃私は灰になって消えているわね」
 致命傷ではないが、深い。
 そして戻りも遅い。
 白木の杭ではないが、銀製の刃なのだ。相応に影響がある。
 余裕ぶって何度も喰らってはやれないな、とは頭の中で呟き、手を濡らした自分の血を、紅い舌でぺろりと舐め取る。

 銀髪の少女が詰める。
 レミリアはそれに合わせて後ろに跳ね、間合いを保つ。間合いを保ちながら少女を見る。
 動きは、人間の中ではいい方だ。戦うことに慣れを持っている、隙のない動作。
 それは同時に、彼女の動きそのものは、所詮鍛えられた人間の枠をはみ出さないということだ。存在の違いという根本的な境界をまたぐほどには至っていない。
 となれば、レミリアが気にするのはやはり、自分に一撃を与えるに至った彼女の異能。

 三度の接近を三度退けた時、再びレミリアの瞳が大きく見開かれる。
 次の瞬間、少女の眼前に、銀色の閃光が迫っていた。



 赤い部屋の片隅に、再び紅い花が咲く。



 殺人鬼の投じたナイフ、それが自分の眉間に突き立つ寸前に、レミリアはその刃を掴んでいた。
 鋭く研がれた刃が握り締めた手指を裂き、銀色の刃の上に紅い線が引かれる。
 まただ、とレミリアの背中がざわつく。
 この剣は確かに、目の前の少女が投じたものだ。
 だが、彼女がそれを投げるところを、レミリアは見ていないし、視ていない。
 この剣が宙を滑って自分との距離を寸前まで詰める姿も、見ていないし、視ていない。

 そして、再び頭の中に鈍く刺さる違和感。
 久しく忘れていた何かを思い起こさせそうな、何か。

「何だと言うのかしらね……気色が悪い」
 レミリアは右手に力を込め、少女に向けてそれを突き出す。
 放たれた「力」は小さく鋭い爪に姿を変え、それが幾重にも層を作って彼女を襲う。
 少女はそれに対して怯えも慌てもせず、淡々と身をかわし、時には手にしたナイフで弾き落とす。
 その間にレミリアはポケットに手を入れ、自分の力を封じた魔札――スペルカードを取り出した。
 これから放つ弾幕で、彼女の真の力量を見極めようと。



 意識をスペルカードに向けていた為に、その時レミリアは、その先にある自分の運命を視ずにいた。



 少女が札を構えるのを見て。
 殺人鬼は、これまでそうしてきたように、意識を研ぎ澄ます。
 脳裏に浮かぶのは、大きな柱時計。
 左右に揺れ動く振り子と、淀みなく文字盤の上を動き続ける二本の針、そして中央に設えられた鍵穴。
 その鍵穴に少女は自らの手を差し込む。最初からそう作られていたかのように、手は鍵穴の中へするりと収まる。
 そして彼女は無造作に、その手をぐるりと捻るのだ。

 刹那、世界が色を無くす。
 あらゆるものが、一瞬前の様相のまま、ぴたりと動くことをやめる。
 静寂に満たされたモノクロームの空間は、まるで時間が止まってしまったかのように、全てが静止した世界。
 否。
 そこはまさしく、時の止まった世界。
                 プライベート・スクウェア
 それは彼女の作り出した、彼女だけの世界。





 刹那の後。
 自分の胸と左手に伝わる熱に、レミリア=スカーレットは何故か、ひどく納得していた。

 少女の左手に握られ、切り裂かれた、一瞬前まで少女の力が封じられていた魔札、今はもう、ただの紙切れ。
 それはレミリアが、そして多くの妖怪と少しの人間が久しく遵守しているルールを引き裂く、禁忌の斬撃。

 確かに、よく考えてみれば分かることだった。
 彼女は一撃目から自分を殺しに来ていたではないか。
 美鈴もメイドたちも、明らかに過剰なダメージを受けていた。二度と目を覚まさない者も少なからずいた。
 剥き出しの殺意をそのまま叩き付けるようなその行為は、今の幻想郷では滅多に見られない。

 ここに来る前、メイドの伝えていた言葉を、レミリアは思い出す。
 紅美鈴が「人間ではない」と言っていた、ということ。
 その警句の意味が、レミリアにはようやく分かった。
 美鈴は深い傷を負わされて、朦朧とした意識の中でその言葉を発したのだ。だから、必要な言葉が落ちていた。
 きっと、正しくはこう言おうとしていたのだろう。



「貴方……幻想郷の人間じゃないのね」



 目の前で、両手に持ったナイフに新たな血を吸わせた殺人鬼に向けて、レミリアはにやりと笑った。
 スペルカードの宣誓中に攻撃を仕掛けてくるなど、今の幻想郷に広まっているルールを知らないに違いない。
 そんなヤツはどう考えても、次の三種類しかいない。
 力を持つ者の嗜みというのを理解しない、低級な妖怪か。
 今のルールが広まる前からずっと寝こけている寝ぼすけか。
 そもそもそんなルールの存在しない場所からやってきた異邦人。
 そして、この殺人鬼は紛れもなく人間であり、故に彼女は明らかに第三項にしか該当しない。



 そして彼女は。
「そうらしいねぇ」
 あっさりと肯定した。



 同時に彼女の手首が翻り、その切っ先を再び血で濡らそうと閃く。
 レミリアは床を蹴り、素早く少女の刃の間合いから飛び退く。
 傷が少々痛むが、動けないほど辛いというわけでもない。

「奇妙なものね」
 口元に手を当て、レミリアはルビーのような瞳を殺人鬼に向ける。そこには浮かぶのは単純な疑念と好奇心。身体を切り裂かれれば当然覚えるだろう他の雑多な感情は何も見えない。
「そんな人間が、どうしてうちを襲いに来るわけ? 誰かに頼まれでもした? 恨みを買うような覚えはあまりあるけれど」
 ゆらりと構える殺人鬼から、返答は来ない。
 少女の細い足が床を蹴る。「せっかちね」ぽつりと呟くレミリアを凝視しながら、再び時計の鍵を回す。



 刹那。
 時の止まった世界の中で。

 吸血鬼の姿が消えていた。



「!?」
 少女は驚きに目を見開いた。こんなことは今まで、一度も無かったことだから。
 周囲を見回し、紅に染まった白き吸血鬼の姿を探す。その内に彼女が時間を止められる限界が訪れ、世界が再び色を取り戻す。

「汚い髪ね」

 吸血鬼の声が響く。少女のすぐ背後から。
 レミリアは鋭く伸ばした爪で、少女の背中まで伸びた銀色の髪を無造作にすくっていた。
「ちゃんと手入れをすればいいのに。そのナイフよりもよっぽど美しく輝くと思うのだけれど。もったいないわ」
 振り向いた少女に向けて、レミリアは笑みを見せる。
 自分が絶対的な上位にあると認識している者の、余裕の微笑。

 振り返りざまの斬撃を、レミリアは紙一重でよける。
 それは間一髪の動作ではなく、少女の動きを完全に見切った上の所作。
 前髪一本落とせずに、銀の刃は空を切る。

「こ、のっ!」
 意識を集中させ、たった一人の世界を作り出す。
 だが、その一瞬前に、確かにそこにあった筈のレミリアの姿は既に消えている。
 少女は背後を振り向く。遙か遠く壁際で、レミリアは腕を組んだ姿勢で静止していた。
 隔てる距離は遠く、時を止めている間に追いすがれる距離ではない。
 そして時が動き出す。

「ああ、やっぱりね。
 貴方の能力が何であるかは分からないけれど、私にはもう通用しない」
 幼き風貌に何故かしっくりとはまる剣呑な笑顔を浮かべ、レミリアは立てた指先をちっちっちっと振った。
「私には運命を見通す力があり、貴方の能力はそれが発動した瞬間、運命を断絶させる。
 つまり……運命の断絶する瞬間こそ、貴方が何某かの能力を使う瞬間ということ。
 そうと分かれば後は簡単。常に運命の流れる先を追って、それが途絶する前に、貴方の牙の届かないところへ行けばいいだけのこと。
 そして、それが簡単なことだということも……もう、証明されたわね」
 自分の言葉に呆然としている少女の顔を、レミリアはじっと観察し、そして軽い驚きを覚えた。
 「お前の攻撃はもう効かない」と宣言したにも関わらず、少女の表情には驚きはあるものの、焦りは微塵も見えない。
 まだ切り札があるのか、それとも理解していないのか。
 いずれにせよ、少女は闘争をやめるつもりは無いようだ。レミリアが予見した通り、少女は再びナイフを握り、構えた。
 やれやれとレミリアは息を吐いた。

「実のところね」
 レミリアの独白。
「私はこの、運命を見通す力というのを、あまり快く思っていないのよ。
 これから先の運命が見えるということは、目の前で何かが起こるより先に、それが起こるということを知ってしまえるということ。そんなものが知れてしまったら……面白くないでしょう?」
 肩をすくめながら、ふわりと身を翻す。一瞬遅れて振るわれたナイフが、その残像だけを切り裂く。
「だから、普段は決してこの能力を使うことは無い。いつでも、その光景を初めて目の当たりにするように。でも今は使っている。ねえ、どうしてだと思うかしら?」
 殺人鬼が時間を止める。だが、一瞬前に吸血鬼はその眼前から消え、決して手の届かぬ位置にいる。
「この身体能力もそう」
 再び流れ出した時の中で、レミリアの声が響く。そちらを振り返ろうとする少女の足は、すっかり軽さを失っていた。
「相手が妖怪だろうと人間だろうと、普段はこんなに早く動かない。こんなに早く動いてしまえばたいていのヤツは私に追いつけないし、今の貴方みたいに目で追うことすら出来ないでしょう。
 それは当然のことなのよ。元来、吸血鬼の身体能力というのはほとんどの妖怪、もちろん人間のそれも、遙かに凌駕しているものなのだから。
 だから私は、普段はゆっくり歩くことにしている。私以外の連中が、ちゃんと私に追いつけるようにね。
 そして貴方の前ではそれをやめている。何故だか分かる?」
 問いかけられた少女は答えを返さない。荒い息で肩を上下させている。

 状況は完全に逆転していた。
 少女のナイフはあれから一度とてレミリアをとらえることは出来ず、レミリアは少女の攻撃を避け続け、不意に一撃を繰り出しては少女の身体を浅く薙ぐ。
 今や、殺人鬼は完全に息を上がらせ、その動きも鋭さを鈍らせていた。
 誰の目にも明らかな、暴力的な力の優劣。
 それでも少女は、ナイフを握る手を振るい続ける。
「うああああああ!!」
 叫び声を上げながら、レミリアに向けて走り出す。

 不意に、レミリアの顔から笑みが消えた。
「つまらないわね」
 吸血鬼は紅い翼を広げ、天井近くまで躍り上がる。
 そして、自分の姿を振り仰いだ少女に向けて、冷たく言い放った。

「ゆっくりまったり、自分の弾を撃ち相手の弾にかする。それが幻想郷のマナーなのよ。
 今の貴方みたいに相手を殺すつもりで刃を振れば、この楽園はたちまち崩れ去ってしまうから。
 でも、あんたがそうして、外のルールを押しつけようとしているから。私も付き合ってあげているの。
 そんなに殺し合いがしたいのだったらね」

 ざわり、と空気が震える。
 カードも無しに解き放ったレミリアの魔力が、空を揺らす。





「私が殺してあげるわ」





 刹那、撃ち出される苛烈な弾幕の嵐。
 少女は床を蹴って、レミリアの放つ弾幕のわずかな隙間に入り続ける。
 だがそれは、レミリアが意図的に作った弾の隙間。          スカーレットシュート
 その空間へと足を踏み入れるのを見越して、レミリアは絶対不可避の紅い閃光を放つ。

 それが罠だと気付いた時にはもう遅く。
 少女の眼前にまで、紅い弾丸は迫っていた。
 そして少女は。
 時を止める。

 そして。再び世界が色を取り戻したとき。
 レミリアの瞳は、はっきりと少女を捕らえていた。
 時を止めて弾をかわすという、その運命すら予見して。

 夜闇を映す巨大な天窓を背に、レミリアが翼を広げる。
 今まさに中天にある、紅き紅き紅き月の中で、自分に向かって躍りかかる悪魔の姿を。
 少女は、今まで送ってきた短い人生の中で。





 もっとも美しいと思った。







 二人の少女の影が交錯する。



 そして、殺人鬼の手から、銀のナイフが滑り落ちた。







「本当、気に入らないわ」
 苛立たしげな呟き。
「こっちはいつもの気分でやろうとしてるのに一人で勝手に殺し合いを始めて、腹が立つからいざ殺してやろうと思えば」
 少女の首を掴んだ手に、落ちる、涙。
「どうして、そんな満ち足りた顔をしている」
 その顔は、普通の者ならば決して死に際に浮かべることの無いような、穏やかな貌だった。

「ずっと……ずっと、探していたの」
 細い喉が震える。
「私が安心して暮らせる場所を。
 でも、そんなのはどこにも無かった……この幻想の郷にも。
 私はずっと化け物と怖れられ、蔑まれていた……」
 レミリアの手にもう一滴、涙がこぼれ落ちた。
「自分を偽って暮らすことにも、もう疲れたの……
 だから……死にたかった。死に場所を探していた。
 ……誰かに殺してほしかった。
 私は化け物なんかじゃなくて、少し力があるだけの、ただの人間……そう思って死にたかった」
「それで、うちに来たの?」
 レミリアの問いに、少女はぐすんと鼻をすすって、うなずいた。

「じゃあ」
 小さな手が少女の喉から離れ、その爪が鋭く伸びる。
「望み通り、殺してあげるわ」
 人差し指の爪の先を、少女の額にあてる。少女が小さくうなずくのが、指先からレミリアに伝わった。
 そしてレミリアは、その手を真横に一閃する。





 銀色の光が宙を舞って。
 少女の前髪が紅い絨毯の上に音もなく落ちた。





「ふん」
 きょとんと自分を見上げる青い瞳を見つめて、レミリアは満足そうに笑う。
「どんな濁った目をしてるのかと思えば、ずいぶん綺麗な目をしてるじゃない」
 呆然としている少女の肩をぽんと叩いて、レミリアは彼女の背後に回った。そして同じように爪を一閃させる。
 彼女の背中、その中程でばっさりと切られた髪が、同じように紅い絨毯に広がった。
 その一房をすくい上げて、少女の眼前にはらはらとこぼす。
「これこの通り、貴方の中の殺人鬼は、私が殺してあげたわ」

「え……?」
 完全に虚を突かれた表情の少女が、肩越しにレミリアを振り返る。
 あどけない人間の少女の顔だ。さっきまでの殺人鬼の貌よりもよほど可愛らしいと、レミリアは思う。

「下らないことで悩んでいるんじゃないの。
 私から見ればあんたなんか、ちょっと便利な能力があるだけの、ただの人間よ。
 そう思われて死ぬよりは。
 そう思われて生きなさい」

「ど、どうして……?」
 少女の困惑は極みに達していた。なぜ彼女は、己を殺そうと牙を剥いた者に、そんな言葉をかけるのかと。
 なぜ彼女は、自分を殺そうとせずに、そんな言葉をかけるのかと。

 レミリアは今度こそ、はーっと深く息を吐いた。この女はいい加減、鈍すぎる。

「言ったでしょう。それが今の幻想郷のルールだからよ。
 幻想郷に来た以上は、あんたもそのルールに従うべきだわ。だからそう言ってるのよ。
 ルールを知らない者にルールを教えてやるのは、先達の役目ですもの」

 満月のように輝く笑みを浮かべて、レミリアは少女に手を差し伸べた。

「居場所が無いなら、ここを居場所にしてもいいわよ。
 勿論ただで居候させてやるわけにはいかないけれど。
 貴方の能力、それなりに便利そうね。丁度人手が少なくなってることだし、メイドでもやってみる?」

 差し伸べられたその手に、少女はおそるおそる自分の手を伸ばす。
 まるで、急いで触れようとしたら消えてしまうとでも思っているかのように。

 差し伸べられたその手こそは、少女が何より夢見ていたものだから。
 夢の中で何度となくそれに向かって手を伸ばし、そのたびに裏切られてきたものだから。

 指先が触れる。
 ひんやりとしているその手がくれたのは温もりでは無かったが、それよりももっと温かいものが、触れた部分から流れ込んできて、少女の胸を満たしてくれた。




「う……う、あっ……あっ……」
 満月の紅い光が降り注ぐ部屋に、少女の嗚咽の声が響く。
 自分の右手に両手ですがりついて涙を流す彼女の頭を、レミリアはそっと撫でてやる。
 それから彼女は、ふと頭をよぎった疑念を口にした。

「ところで……貴方、なんて呼んだらいいかしら?」




後書き

 初出は第二回東方最萌トーナメント準決勝、十六夜咲夜vs八雲紫戦にて投下。
 その後、若干の加筆修正を行いました。

 この二人の出会いというのは既に多くの人が描かれているエピソードですが、自分も自分なりに描いている「十六夜咲夜」と「レミリア=スカーレット」の物語の始まりを描きたいという衝動の元、こうして形に為すことに致しました。
 最萌に背中を押してもらった形でもありまする。

 咲夜とレミリアの出会いはただの出会いではないだろうというのは、十六夜咲夜というキャラクター、そしてレミリアとの関係を見始めてからすぐに思い至っていました。
(拙作「夢幻咲妖」にて、既にレミリアとの戦いを経ている旨の描写がありますので、その頃には既にそのような構想があったようです)
 レミリアも咲夜も相当に高いプライドの持ち主なので、相手を自分に足る者として見るのにそれなりの手順というのが必要なんだと思うんですね。
 そして咲夜が幻想郷の外から来たという設定から、このような形に相成りました。

 相変わらず殺伐としたSSになると妙に筆が躍りますよ。なんかやだなあ。

 つらと書いた通り、ぶつかり合うシーンはしっかりとしたイメージがあるのに、レミリアが彼女を「十六夜咲夜」と命名するシーンはまったくもってなんのイメージもありません。ううむ、画竜点睛を欠く。

 何はともあれ。
 ここまで読んで頂いたことに、心から感謝いたします。
 ありがとうございました。

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