仄暗い図書館。
天を衝くほどの高さでそびえ立つ本棚の合間を、私はふわふわと浮いていた。
特にあてがあるわけではなく、何となく本棚を眺めながら浮いていた。
そう。別に目的なんて無い。
だから、この書庫の片隅で、読み終えた本を積み上げながら、じっと自分の手元に目を落としている金髪の少女の様子を何となく見に来たわけでも、別にない。
- Indoor Rainbow -
最初に見つけた時は、心底うんざりした。
この夏、博麗神社で続いた宴会の結末は、私に新たな発見をもたらしてくれたが、同時に新しいネズミを一匹、私の書斎にもたらしてもくれた。賢者の石の秘術をもってしても世界は私に等価交換を強いる。
「ちょっと、そこの貴方」
彼女は行儀悪く床に腰を下ろし、本棚に背を預けて、その辺りから抜き取ったのだろう魔術書を広げていた。
闇の中でなお鮮やかな金色の髪と、その輝きを二つに分ける赤いヘアバンド、鮮やかな青と白で飾った、久しく見ていない晴天の空を思い起こさせるワンピース。そして彼女の周囲でちょこちょこと動き回ったり、じっと私の様子をうかがったりしている何体もの人形。
あの宴会騒ぎの最中で見た記憶のある顔だった。どさくさに紛れて一度この書庫に入ってきたことがあった。その時に目を付けられていたのだろう。
名前は……記憶にない。聞いたかもしれないが、忘れてしまったのかもしれない。
「なに?」
彼女はかけていた眼鏡を外すと、ついと顔を上げて私の方を見る。腰は落としたままで、膝の上の本も開いたまま。私を見る目からして「何か用事かしら? 私はこの本を読んでいたいんだけど。まあ終わったらまた続きを読めばいいわ」という感じで、居座る気に充ち満ちている。
最近は、私の姿を認めるなり脱兎の如くに逃げ出し、後には「これ借りてくぜ!」の言葉だけを残すネズミしか相手にしていなかったから、その態度は私にとって随分と意外なもので、だからこそ腹立たしかった。
「誰に断ってここにいるの」
「この本」
哲学的な答えだ。「本が私を呼んだ」とでも言うのか、はたまた「全ての賢者は全ての知識に対して、それを貪欲に求める義務と権利がある」などという考えなのだろうか。
いずれにせよ私はうんざりしていた。あの白黒のネズミだけでもわずらわしいのに、これ以上この部屋でブックワームを飼うつもりなど勿論無い。
「ここは私の書庫よ。貴方の入館を許した憶えは無いわ。出ていきなさい」
少しでもごねるなら問答無用と弾幕で追い払うつもりだった。
だが彼女は意外なほどに素直に、諾と答えた。
本を閉じると、間近な棚の隙間にそれを差し、周りに積んだ他の本を、周囲の人形たちに「片付けてきて」と預けて、すっくと立ち上がる。
「素晴らしい蔵書の数々だわ。ざっと見ただけだけれど、ここは全ての魔術師にとって天国のような場所ね」
彼女はにっこりと微笑むと、戻ってきた人形たちを従えて、誰かのように言葉を残して、誰かとは違う匂いの言葉を残して、春風のように去っていった。
「また来るわ」
「二度と来ないで」
「二度と来ないでと言った筈だけれど」
次の日はさほどの間もおかずに訪れた。魔術書の執筆をしていたら、小悪魔が「見慣れない人がいるンですけど、パチュリー様のお知り合いですかァ〜?」と報告してきたので、私にしては割と足早に現場に向かった。
「それを承諾した覚えはないわね」
すました顔で答えながらも、身は既に帰り支度。残念ではあるけど未練は無い。顔がそう言っている気がした。
彼女は人形たちを従えて、誰かのように言葉を残して、誰かとは違う匂いの言葉を残して、春風のように去っていった。
「逆の立場だったら、貴方はそう簡単に諦められる?」
沈黙と冷視を答えとして返す。
いなくなったのを確認して、私は咲夜を呼びつける。
「最近ネズミが一匹増えたわ。そいつの侵入もちゃんと防ぎなさい」
「はあ、分かりました」
またその猫根性を叩き直してやろうかと思った。
とどのつまり、この図書館はひどく広く大きくて、それが収まる紅魔館もまた広く大きい。だから、咲夜が時間と空間を操ったって、どうしても死角が出来るものなのだ。
……そう、自分に言い聞かせる。でもなければ少し平静さを失いそうだった。
彼女はこの前と同じように床に座り込んで、黙々とページを繰っている。
私に気付いていないわけではない。現に彼女の周囲の人形たちがチラチラと私のことを見ている。使い魔が気付いていて本人が気付いていないわけがない。だが彼女は動かず、こちらを見ることすら惜しいとでも言うように、黙々とページを繰っている。
「火土符」
懐からスペルカードを一枚取り出し、魔力を込める。
彼女が読んでいた本をパタンと閉じる。
「ラーヴァクロムレク!」
鋼の刃と炎の塊が空間を穿つ。
爆炎と爆煙が晴れた後、彼女が座っていた空間には、本を抱えた人形が一体だけ立っていた。
恐らく直前まで読んでいたのだろうその本を本棚に戻すと、人形はてててっと床を蹴って闇の中へ消えていった。
とりあえず、他に用意していた2枚のスペルカードは咲夜にぶつけることにする。
時間を止めて逃げられたのでますます精神的負荷が蓄積した。ああ腹立たしい。
やはり見つけ次第追い払う方針を三度ほど続ける。
気になることがある。
彼女を追い払った後、小悪魔に命じて本棚の点検をさせたが、いずれの場合も可と出た。
つまり彼女は「お持ち帰り」をしているわけではない。
私が近付いても、相変わらず彼女は無反応だ。
扉をノックする要領で手近な本棚を叩く。彼女が本を閉じて立ち上がる。
「もう閉館時間? 今回はちょっと早かったわね」
眼鏡をしまい、手に持った本を棚に戻して、私に背中を向ける。
「貴方は持っていかないのね」
そう訊ねると、彼女は立ち止まって、私を振り返った。
「焦らなくても、この大図書館が腰を上げて逃げるわけではないのだし。
扉が閉まったら、また別の日に読みに来ればいいだけだわ。それにね」
その時浮かべた彼女の笑みで、私はようやく気付いたのだ。
「少し興味を抱いた程度でいちいち本を持ち帰ってたら、私の家がパンクしちゃうわ。
そのうち、いずれ、いつか」
人間では無かったのか。
ところで彼女も「持ち帰ったものを返す」という発想は持ち合わせていないようだ。
近付いてノック。彼女の帰り支度。
「昨日は騒々しかったわね」
去り際の言葉。確かに昨日は黒ネズミを追い払うのにばたばたした……つまり彼女はその時からいたということか。
「あいつの気持ちも分からないでもない、というのが正直なところね」
彼女に言われるまでもなく、私も分かっている。
あの黒ネズミは私や彼女と違い、人間だ。大図書館が動かなくても、時間の方が逃げていく。
この図書館を制覇するには、あいつだけは明らかに持ち時間が足りないのだ。だから、刹那の時も無駄にすまいと本を持ち去るのだろう。
「まあ、私が貴方でも、本気で殺すけど」
勿論世界というのはそういうものなのだ。
「写本?」
珍しい光景を見た。彼女の横で、人形が筆を甲斐甲斐しく動かして文字を綴っている。ちらりと文字の羅列を見たが、確かに彼女が開いていた本の中身だった。
「ええ、気になった本があったから……ああ、この白本は自分で持ち込んだものですから、ご心配なく」
なるほど、人形操術の応用なのだろう。人形遣いの彼女ならこういう芸当も出来るか。
自動書記か、なかなか便利そうだ。先日魔術書を仕上げる時に熱中するあまり腱鞘炎になりかけたばかりなので、興味がわいた。アニメート関連の魔術書を今度漁ってみよう。
そんなことを考えている間に、彼女は本を閉じて立ち上がる。人形が持っていた筆と書きかけの本を彼女に渡す。ということは、また後日に続きを書きにくるつもりなのだろう。
彼女はにっこりと微笑むと、戻ってきた人形たちを従えて、誰かのように言葉を残して、誰かとは違う匂いの言葉を残して、春風のように去っていった。
「また来るわ」
ほらやっぱり。
ちなみに。
自動書記を会得した後の便利さより、そこに至るまでの手間の方が重そうだったので、魅力的な夢は幻になった。
「たまには」
彼女は眼鏡を外すと、本を閉じて立ち上がる。
「お茶でも飲んでいかないかしら?」
自分の言葉の通り、たまにそういう気分になる。黒ネズミにも茶を勧めたことが何度かあった。お茶を飲みながら話した図書館への出入り規制や「貸し出した」本の催促などは、お茶の香気が館内の空気に消えて無くなる頃には忘れられていたが。
「遠慮するわ。お茶に何を混ぜて出されるか、分からないもの」
いつものように周囲の人形たちを集め、いつものように消えていく。
仕方が無いので、たまには咲夜と一緒に茶を飲むことにする。
この女は生活感にあふれる話か、そうでなければレミィの話しかしない。もっと本を読むべきだ。
それは多分彼女が決めた勝手なルールなのだろう。
私の方から干渉しない限りは、彼女は決して立ち上がらない。間近で眺めていても、人形たちはともかく本人は一切こちらを振り返らない。
その代わり、私が何かの呼びかけを示せば、その内容如何に関わらず、彼女はしずしずと退出する。他愛のない別れの言葉を残して。
館の主でもないのに勝手にルールを創らないでほしい。
「さっきそこでちょこちょこ歩く人形を見たンですけどー?」
本を読んでいたら、小悪魔が飛んできてそう耳打ちをしてきた。
「放っておきなさい」
立ち上がるのが面倒だったので、そう言っておいた。
読み終えた頃、別に小悪魔に任せて立ち退かせればよかったということに思い至る。本の内容に気を取られていて、そこまで頭が回らなかった。
今からでも追い払いに行こうかと思ったが、近くに小悪魔がいなかったのでやめる。
この広い図書館の中、どこにいるかも分からない人間を捜すなんて面倒なこと、わざわざしなくたって。
何度か彼女を見つける。
彼女は、必ず魔術書を読んでいるかといえばそうでもない。気まぐれに集めた小説や童話を読んでいることが何度かある。何が面白いのだろうか。
彼女が立ち去った後、読んでいたその本を開いてみた。全く面白くない。
架空の世界の架空の話。いったい何に興味を引かれるのだろうか。
「咲夜は優秀なメイドよ」
レミィがそう言っていた理由が分かった気がする。
優秀という言葉が、最低限の労力で最大限の結果を得ることを指すなら、咲夜は優秀である。
つまり、館と住人にとって害にならない人物なら咲夜は放っておくのである。
優秀なメイドという言葉が、サボるのが上手なメイドということを指すなら、咲夜は優秀なメイドである。
黒ネズミが害にならないかということについては。
咲夜は優秀すぎて、それがたまに腹立たしい。
なんとなくすることがない。
魔術書は先日仕上げてしまったし、最近特に興味を引かれる事柄もない。
私はぶらぶらと図書館内をさまようことにした。もしかしたら、何か気になる本が見つかるかもしれない。
本の森の中を、たゆたう煙のようにふわふわと浮かぶ。風が吹いているならそれにでも身を任せようという気分だったが、誰か(例えばあの黒ネズミ)が全速力で走り抜けでもしない限り、ここは風が吹くような場所ではない。なので、気の向くままに漂ってみることにする。
微かな息遣いに誘われたのかもしれない。
いつの間にか、視線の先に彼女の姿があった。
闇の中でなお鮮やかな金色の髪と、その輝きを二つに分ける赤いヘアバンド、鮮やかな青と白で飾った、久しく見ていない晴天の空を思い起こさせるワンピース。そして彼女の周囲でちょこちょこと動き回ったり、じっと私の様子をうかがったりしている何体もの人形。
いつものように床に座り、眼鏡の奥の瞳で手元の文字を黙々と追っている。
ふと、この前彼女が読んでいた本のことを思い出す。丁度良いから何が面白いのかと訊ねてみるかと思ったが、はたと思い留まる。
そう、声をかければ、彼女は答えてくれるだろう。
だが、声をかければ、彼女は帰ってしまうだろう。
さてどうしたものか。
その自問に何故か即答を示せず、私はその場で身体をふーっと傾けながら腕を組む。
どうせすることは無いのだし、もう少し考えてみることにしよう。
……この場合は「悩む」と言うべきなのだろうか?
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