「はぁ……」
 部屋に戻るなり、魔術書をテーブルの上に置いて、靴も脱がずにベッドに倒れ込む。
 夜も深まり、寝るには頃合いの時間。日中は目も眩むほどの熱気もすっかり冷やされ、ひんやりと冷えた布が肌に心地良い。
 けれど、身体にたまった疲労以上に、心にどろりと沈んだ淀みが、私の意識を眠りから断絶する。
 ごろりと体を返して仰向けになり、何を考えるでもなくただぼんやりと天井を見つめる。
 星と月の放つかすかな光のみが差し込む部屋の中で、そこはおぼろな影を浮かび上がらせるのみ。
 何という不様な姿だろう。あまりに不様すぎて自嘲の笑いすらわいてこない。
 これが私なのか。
 こんなみっともない姿をさらしている少女が本当に、七色の人形遣い、アリス=マーガトロイドなのか?


 - 紅玉色の郷 -


「……駄目だなあ、最近」
 今日も日中に霊夢と弾幕ごっこをしていたのだが、自分でもあきれるほど動きが悪かった。
 しまいには向こうから「この辺にしとこ。あんた調子悪そうだし」なんて言われてしまう始末。

 スランプ、というのとは何か違う。
 頭が回らないわけではない。体に力が入らないわけでもない。
 でも、心に何かが引っかかって――それとも、心が何かに引っかかって?
 とにかく調子が出ないのだ。

 ああ、眠れない。
 こんな時、以前なら気晴らしに散歩に出かけたりしたものだが、最近は外に出たがらなくなっている。
 なので最近そうするように、ベッドから起き上がって灯りを点けると、ホームサイズのワインセラーから開封済みの瓶を一本、適当に取り出した。落ち着いて飲む時ならデキャンタも用意するのだが、そんな気分でも無いので直接グラスに注ぐ。
 ……テイスティングのマナーなど知ったことかとぞんざいに舌に乗せたが、まともに味わうには厳しいくらいに劣化していた。
 けれど、今の目的は美酒を味わうことでなく、ともかくアルコールを喉の奥に流し込むことなので、こんな酒の方が良いのかもしれない。

 一息に飲み干し、すぐに次の酒を注ごうとすると、グラスの半ばほどを満たしたところで瓶の中の液体が尽きた。
 中途半端な量だったが、流石にちゃんぽんにするほど理性と知性を曇らせていたわけでは無いので、大人しくグラスを空にしてから次の瓶を見繕う。開封済みのものが無かったので、なるべく質の低いものを取る。コルクを抜く動作は身に染みついてしまったものか、こんなに投げやりな気分の中でもばか丁寧で、そんな自分に苦い笑みが漏れる。


 なみなみと注がれた液体の中に、じっと視線を落とす。
 紅く、暗く、浮かび上がる自分の顔は、ひどく不機嫌そうだ。
 いやいやと小さくかぶりを振る。こんなもやもやとした気分を抱えて機嫌良さそうにしていられるほど、自分はまだ年月を経た存在じゃあない。
 こんなトゲを胸に突き刺したまま、穏やかでなんていられない。

 ああ、そうだ。
 本当は、自分の胸の奥底でワインの澱のように淀んでいる感情が何であるか、私は正しく理解している。
 理解しているが故に、意識したくないのだ。
 意識してしまえば、それは認めることであるような気がして。




 あの日から数日も経とうとしているのに。
 未だに鮮明に思い出す。

                ワ ラ
 下から私を見下ろして、嘲笑う鬼の顔。
『そろそろ本当の孤独に気が付いたんでしょう?』


「ッ!」
 わき上がる感情に流されるように。
 或いは、その感情を力ずくで抑えつけようとするように。
 強くきつく激しく、自分の手をテーブルに叩き付ける。

 その拍子にグラスが倒れ、薄手のクロスをさっと敷いたように、テーブルの上を紅く紅く染めた。








「あああ、もったいない」

 その声は唐突に聞こえた。
 テーブルの下から。

 果たしてその下を覗き込めば、ぽたりぽたりと縁からこぼれ落ちる紅い雫を、広げた手と大きな口で受けている少女の姿があった。
 彼女は少しずつ上体をもたげてこぼれたワインの軌跡を追い、とうとうテーブルの端に口を付けるとぴちゃぴちゃと音を立てて舐め始めた。
 はっきり言ってみっともない。


 こんな意地汚い少女が、過日の宴会騒ぎの元凶で。
 しかも自分の心をかき乱した張本人なのだから、なおのこと腹が立つ。

 腹が立つので横っ腹に爪先を叩き込んだ。
 悲鳴を上げて床をごろごろのたうち回る伊吹萃香を見下ろしていると、ほんの少しだけ溜飲が下がる。
 靴を脱がなくてよかった。




「ひどい」
 うるうると上目遣いでこちらを見上げる少女。
 それが普通の人間だとかの子供だったら罪悪感もわこうものだけれど、相手は鬼なので無視する。
 元来、私が一撃くれたくらいでどうにかなるようなヤツではないのだから。

「で、何しに来たのよ」
「いやぁ、ぶらぶらと散歩してたらいい匂いがしたから、ついふら〜っと」
 萃香は指でちょいとワインの瓶を指し示す。
「ついふら〜っと、人の家に無断で入り込んだわけ?」
「疎と密を操る私にとって、人の家に無断で入り込むことなんて容易いものよ」
「何を偉そうに」

 と、萃香がにゅっと手を伸ばしてワインの瓶と横倒しになったままのグラスをつかむ。
 そして、私の目の前にグラスを置いて、とくとくと音を立ててワインを注いだ。
「まあまあ、それよりもさー、ほら一緒に飲もうよー。お酒は一人で飲むよりみんなで楽しく飲んだ方が美味しいものよ」
 グラスにワインをなみなみと注ぎ終えると、彼女は上を向いて大口を開け……
 本当に不作法なヤツだ。

 満足そうにふいーと口元を拭って、萃香がにかっと笑う。
「いやーうまい。いい酒だねー。たまには葡萄酒も悪くはないよ」
 良いはずが無い。それは酔っぱらう為に開けたものだ……と思ったが、確かに世間的な水準から見れば充分に良い品でもある。自分の蒐集癖が誇らしくもあり情けなくもあり、何とも言えない気分だ。
 だが、今は彼女の賛辞に笑顔で応えるような余裕など欠片もない。むしろ、他の誰よりも。
「じゃあ、とっととそれ飲んでどっか行きなさい」
 よりにもよって今一番見たくない顔なのに。いつまでも私の前にいるんじゃない。
「えー? ダメよ。アリス飲んでないじゃない」
 まるで何も考えていないような顔でいけしゃあしゃあと。


 瞬時に何体もの人形が飛び出し、手にした槍を萃香に突きつける。
 否、私がそう命じた。
 昼間の自分の緩慢な動作が嘘のように、獲物を狙う猛禽のような俊敏さで。
「消えなさい。今すぐに」
 怒りと憎しみでぎらぎらと燃えているだろう瞳で、私は萃香を睨み付ける。
 それを受けた萃香は。


 突然刃を突きつけられた驚きも、怖れも、怒りも、他のどんな感情もない。
 何の表情もない顔で、私を見上げていた。


 やめて。
「……ああ、大した余裕だわね」
 やめて。
「貴方は鬼だものね。こんな細い針で刺されたくらいじゃ痛くも痒くもないわけね」
 もうやめて。
「ねえ、楽しい? そうやって自分の力をひけらかして。私をあざ笑って……ああ、実に滑稽でしょうね!」
 やめて。お願いだから。
「こうやって勝手に人の家に上がり込んで、勝手に人のお酒を飲んで、そうやって気楽に生きていられるあんたは!
 そりゃさぞかし楽しいでしょうね!」


 萃香の頭がゆらりと傾いて。
「ごめん」


 ――え。


「あの時は、私も宴会騒ぎで浮かれてた。
 だから……言葉を選んでる余裕とか無くって。ちょっと辛い言い方をしちゃった。
 それをどうしても謝りたくて……でも、こうして二人きりで逢える機会が無くってさ。
 さっきまで、疎になってずっとあんたを見てた。どうにかして話しかけられないかってさ。
 ワインの匂いがしたからついふらふらっと入ってきちゃったけど……これが話のきっかけになれば、いいなって……」

 萃香は真剣な顔で私を見ている。
 あの時博麗神社で出会った時のような、酒に淀んだ瞳ではなくて。
 童女の姿に似つかわしい、清水のように澄んだ瞳。

「あんたは私に似てた。
 ずっと孤独に喘いでいた私に似てた。
 自分がいなくても始まる宴会を、遠くから見ていた私に似てた。
 ……昔の自分を見るのが嫌で、あんなに辛いこと言ったのかもしれない。
 えーと……その、だからさ。うまく言えないんだけど……
 アリス、あんたもさ。みんなの輪の中に屈託無く入り込んでいけたらいいなって思ってるのよ。
 あんたが今みたいに、周囲に溶け込めずにいるとさ……なんか私も、自信なくすから」

 周囲に浮かんでいた人形たちが、私の制御を離れて、ふわりと床の上に着地する。
 目の前の少女に対して、私は、戦意も敵意も害意も完全に失っていた。
 だって。

 笑ってしまったから。
 彼女の言う通り、今の私は伊吹萃香だ。
 孤独に喘いで酒にすがり、酩酊に沈んで寂しさを紛らわせようとしているところなんて、そのまんまじゃない。

 私は、萃香がワインを注いでくれたグラスを手に取った。
 なみなみと注がれているので中の液体を回すことは諦めて、一口含んで舌の上で転がす。
 芳醇な香りが口腔いっぱいに広がるのを楽しんでから、喉の奥へと流し込む。

「ワインの飲み方くらいは教えてあげるわ。安酒みたいにがぶがぶ飲まれたんじゃたまらないから」

 萃香の頭にぽんと手を置くと、彼女はふわぁっと、花が開くように微笑んだ。




 少女と向き合ってグラスを傾けながら、私の頭に自虐的な考えがよぎる。
 これは茶番なのかもしれない。
 寂しがり屋同士が肌を寄せ合って、誰かの温もりを感じていたいという欲求を満たしたい、というだけなのかも。

 けれど、私は萃香の孤独を分かってしまえているから。
 茶番と笑われようとも、今は彼女の側にいてやりたいと思った。

 萃香は舌の上でワインを転がすというのがなかなかうまく出来ないらしい。難しそうな顔で口をもごもごさせている。
 彼女の性格などからして、こうしてちびちびと酒を飲むのは苦手なんじゃないかしら。
「……はあ。難しいねえ」
「慣れれば簡単よ」
 小さく笑って、それから私もグラスに口を付ける。

 この紅玉色のお酒は、私にとっての幻想郷そのもの。
 酸っぱくて、渋くて、苦くて――そして、甘く私を酔わせてくれる。
 私も、今の萃香のように。
 この幻想郷の味を、もう少し楽しむことが出来るようになれればいいと、そう思った。




 きっと、慣れれば簡単なんだろう。




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