往診の帰りのことだった。
 何となくというか気まぐれというかそういう類の気分で、八意永琳は人里を歩いていた。
 あまり変わり映えのしない毎日を過ごしていると、時折ふとこのような衝動に駆られる。いつもより少し回り道をすることで、何か面白いことに出会わないものかと。
 そんな時、たいがいは空振りで「つまらない」と思いつつもまあいいやと流してしまうのだが、その日は少しばかり何かがあった。
 いや、だいぶ。


 - 太公望 -


 川べりを歩く永琳の脇を、子供達が駆け抜けていく。
 彼女の物珍しい装いに何人かは目を留めるものの、仲間に遅れまいと歓声を上げて走り去っていった。
 なんとものどかな風景に、永琳も自然と口元がほころぶ。
 夏の頃の突き刺すような日差しはすっかり優しさを帯び、うららかな陽気が世界を照らしている。
 今は人間の時間。子供たちが安心して野を駆けめぐることを許された時間。光りあふれる幻想郷の中で人はつかの間の自由を謳歌する。
 それは私たちにも言えることだと永琳は心の中で呟く。
 空に輝く月に見下ろされると、そこに住む者たちに見張られているような気がした。
 だが、太陽が照っている間は、その月も姿を隠す。
 今はもうその心配も無くなったと言っても、やはり長年の生活で染みついた感覚はそうは消えないのだ。
(だから……こんないい天気の時は、本当に落ち着くわね)
 ふふふと笑って永琳は空を仰ぐ。
 空は青く透き通っていて、見る者の気持ちも澄み渡らせてくれる。
(姫様もたまには外に出ればいいのにね。すっかり出不精になっちゃって)
 今まで閉じこめていたのが自分だということは青空の彼方に捨て去って、永琳はそんなことを考える。地に視線を戻せば、小川に糸を垂れながら午睡にふける少女の姿が目に入った。
 そうだ、今度釣りにでも誘ってみるか。風が吹くたびにさざなみを立てる水面を見つめながら魚がかかるのをのんびりと待つ。永遠の時間をもてあます私たちにはぴったりの娯楽ではないか。いやあの姫のことだからすぐに「つまんなーい」と竿を放り出すかも……とか考えていたところで、永琳はそれに気付いた。
 川辺に寝ころぶ少女、草の翠を覆い隠して広がる白く長い髪、それをまばらに飾る赤と白の布。
「お前……」
 思わず立ち止まると、その気配に気付いたのだろう、少女も手で覆っていた赤い瞳を永琳に向ける。
「あら。珍しいところで会うわね」
 藤原妹紅はきょとんとした顔で、それはそれは心底意外そうに言った。

「よっ」
 妹紅が竿を上げる。針の先には何も付いてない。寝てる間に食われたのだろうと永琳は思った。ついでに彼女のすぐ側に転がっている魚籠をちらりと覗く。やはり空。たぶん真面目にやってなかったんだろう。
「今日はどうしたの。輝夜のお守りは?」
「患者の往診の帰りよ。ついでに道草」
「ああ、そーなんだ……そんな構えなくてもいいよ。やる気無いし」
「そう? それはありがたいわね」
 永琳が構えを解く。妹紅はしばらく目の前で釣り糸をゆらゆらと揺らしていたが、やがて永琳を振り返って、
「アンタもやる?」
 日頃から弾幕を交える相手からの思いもよらぬ誘い。
 せっかくだから永琳は乗ることにした。毒喰らわば皿までと言うし。
(どうせ私には毒は効かないしねぇ)
 妹紅の隣に腰を下ろすと、永琳は竿を受け取った。その妹紅は側に放ってあったもう一本の竿を手に取る。
「どうして二本あるの?」
「たまに慧音が来るし、まれに思いもよらぬ顔が来る」
 なるほど、と永琳はうなずいた。確かに思いもよらぬ顔だろう。
 妹紅は竹で編んだ小さな籠を開けて、中からうねうねと動く虫を二匹つかみ取る。
「ほれ」
 放られた一匹を、永琳は真顔で受け取った。そのまま平然と釣り針に虫を突き刺す。
「つまんないなあ。可愛い悲鳴とか上げてくれればいいのに」
「もっとグロテスクなものをそのまますり潰すこととかもあるし」
「ああ、そういえばアンタ薬師だったっけ。そりゃ慣れてるわね」
「お前のことを言ったんだけど」
 自分も仕掛けをする妹紅を見ながら、永琳はやはり輝夜を釣りに誘うという計画を破棄した。きっとこんな虫に触るどころか近づきもしないだろう。「イナバ、後は任せたわ」とか言ってその辺でごろごろ寝てしまうんじゃないか。
 妹紅の作業が終わるのを律儀に待って、それから二人で水面に糸を垂れた。


「釣りはいいわ。魚が針にかかるのをまったり待ちながら、吹く風に飛ぶ鳥に移ろう季節に心を馳せる。ねえ永琳。永遠の時間をもてあます私たちにはぴったりの娯楽だと思わない?」
 ええそう思います。私は思うんですけどねえ、あの人が。
 と頭の中で答えながら、永琳は別の問いを口に出す。
「右腕、まだ治ってないのね」
「あ? ああ。まだうまく動かなくてね」
 先ほど虫を針に仕掛けるとき、妹紅は少々やり辛そうにしていたのを、永琳は目ざとく見つけていた。
 その右腕は数日前の弾幕勝負で粉々に吹き飛ばしている。永遠の命を与える秘薬を服した身体だが、受けた傷はそう容易く癒えるわけではない。
「輝夜の方はどう?」
「まだ少し火傷の跡があるわね。まあ、明日には消えているでしょうけど」
 それを聞いた妹紅はハッと笑って、それから小さく、化け物め、と呟いた。影が崩れるほどに焼かれてからたった数日でそこまで回復しているのだから、なるほど彼女の言う通り化け物だ。

 そして恐らく、その言葉は自分自身にも、そして私にも向けられた言葉なのだろうと永琳は思う。
 禁断の薬を服した者。
 死と老いという定めから逃れた者。
 蓬莱の薬の力は凄まじく、身体を粉々に砕かれようとも、時を経ずに完全に元通りにしてしまう。
 故に、輝夜と妹紅は殺し合いを続けている。昔からずっと。今もずっと。
 それは死と老いという定めから逃れた代わりに受け取った定めなのだろうか。
 それは禁断の薬を口にした罰なのだろうか。
 そして私に課せられた罰は

「引いてるよ」

 妹紅の呼びかけにハッとなる。考えに没頭していて気付かなかったが、確かに竿を引っ張られる感触があった。強すぎず弱すぎず、竿を引き上げる。やや動きが遅れたが、魚はまだ糸の先に食いついていた。
 釣り上げた魚を妹紅の差し出す魚籠に放り込み、餌を付け直して再び投じる。
「何考えてたの」
「道草の言い訳」
 ふうん、という気のない返事。

 再び糸を垂らして静寂を受け容れる。永琳は思考に没頭しないように気を付けていると、今度は妹紅の素振りに意識が向いた。立て膝に腕を重ねた上にあごを落とし、横目でずっと永琳の方を伺っていた彼女は、
「ねえ。アンタはどうして蓬莱の薬を飲んだの?」
 唐突に切り出してきた。
「……気になる?」
「それはまあ、というか……アンタは輝夜みたいな阿呆じゃないし、私のような馬鹿でもない。
 むしろ全然利口なヤツだと思うわ。単に頭がいい、って意味じゃあなくね。
 そのアンタがどうして永遠の命を手に入れたのか……その後にどのような人生が待っているのかも当然分かっているだろうアンタがどうして蓬莱の薬を飲んだのか、そりゃ気になるわ」
 妹紅の赤い瞳が永琳を見つめている。
「引いてるわよ」
 妹紅の右腕が跳ね上がる。釣れた魚ごと空中で回転し、それは二人の後方、土手の上に墜落した。そして視線はずっと、永琳の顔に注がれている。
「……そこまで真剣になる理由でもないけどね」
 永琳は苦笑して、それから自分の選択を顧みる。

 自分に課した罰は、見守ること。
 自分に課した定めは、見つめ続けること。
 自分の犯した罪を、未来永劫に見据え続けること。

 眠れない夜があった。
 月からの追っ手に怯え、幸せそうに眠る友の顔を見ながら一睡もせず夜を明かしたこともあった。
 眠れない夜があった。
 血塗れになった友が、これでも死ねぬ、永遠を捨てられぬとすがりついてくる夢を見て、飛び起きたこともあった。
 眠れない夜があった。
 いつか訪れるかもしれない日、輝夜が己の定めを呪う日の為に、禁薬を打ち消す為の薬の開発に寝る間も惜しんだこともあった。
 眠れない夜があった。
 いくつもあった。

 その苦難も、苦痛も、悔恨も、怨嗟も、悲嘆も、憐憫も、己の中に全て受け容れること。
 その苦難も、苦痛も、悔恨も、怨嗟も、悲嘆も、憐憫も、己の中に全て受け容れていくこと。
 それが私に課せられた罰。
 それが私の選んだ罰。

「結局、私もただの莫迦だってことよ」
「答えになってない」
 妹紅は不満そうに鼻を鳴らすと、勢いよく立ち上がる。
 先ほど土手の上まで吹っ飛ばした竿を取りに行くために。


「ただいま」
「あ、師匠。お帰りなさい」
 永遠亭に戻ってくると、鈴仙が扉の前で待っていた。
「遅かったですね……どうしたんですか、それ?」
 鈴仙の赤い瞳が永琳の携えている魚籠を見ている。
 なので永琳は道中考えていた言い訳を披露することにした。
「お土産。亀を助けたらね、海の底のお屋敷にお呼ばれしたの」
「そんな。お伽噺じゃなるまいし」
「じゃあ魔界」
「じゃあって何ですか……ああそれよりも、姫が探してましたよ。何かくだらない頼みか
 ろくでもない頼みでもあるんじゃないですか」
「なるほど。それでウドンゲはわざわざ玄関まで出てきて……退避してたのね」
 図星を突かれて耳を突っ張らせる鈴仙に魚籠を渡し、夕餉に並べさせなさいと指示をする。
 屋敷の中を歩きながら、永琳は自分も釣り竿を作ろうと考えた。材料はいくらでもあるのだし。
「もー永琳たら、私を置いてどこに行ったのかしら! 一人で遊んでるんだとしたら許さないわ」
 どうせだから二振り作ることにしよう。材料はいくらでもあるのだし。
 あのせっかちな姫にも、少しは落ち着いた愉しみを味わわせるべきだろう。


 どうせすぐ投げ出すだろうけど。



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