長く長く長い石段の頂上。
 幽然と構える山門を背に、その少女は石段にちょこんと腰を下ろし、茫漠と空を眺めていた。
 初めてこの空を見上げた時は「ああ、やっぱり微妙に違うものなのね」というささやかな感動もあったものだが、ここを訪れるのももう四度、そのたびに長々と見ているのだから、いい加減飽きる。
「……はあ」
 何度目か分からないため息。この数刻でどれだけの幸せを逃したことだろう。
 まったく、友達付き合いというのは大変だ。


 - 彼女の在処 -


 背後で、さくりと草を踏む音が聞こえた。
 今まで変わり映えのしない風景の中にいた少女、メリーはもちろんその音に耳ざとく反応したが、それは彼女が今一番心待ちにしている相手の足音ではなかったので、首だけを動かしてそちらを伺う。
「メリー、お茶を持ってきた」
 お盆に湯気を立てるお茶碗を乗せてやってきたのは、深い緑色のベストとスカートに身を包んだ、一見すればちょっと目つきが鋭いだけの、なんの変哲もない女学生かと思うような少女だった。
「ええ。いつもありがとう」
 周辺に白い塊をふわりふわりと浮かせ、細い腰には二本の刀を佩いた、一見してただごとでない装いのその少女は、山門をくぐると、石段に座るメリーの傍らに盆を下ろす。そうしてもらったところでメリーは気付いたが、盆の上にはお茶請けのお団子が添えられていて、そしてお茶碗はふたつ。
「今日はちょっと付き合える」
 彼女はにこりと笑ってメリーの隣に腰を下ろす。
「今日はもうお仕事はないの?」
「ええ。庭は朝の内に片付けていたから。幽々子さまとあなたのご友人には多めにお団子を出しておいたから、少しはここに座っていても大丈夫」
 そう、とうなずいて、メリーは微笑を浮かべた。だいぶ暇を持て余していたので、話し相手が出来るのは大歓迎だ。

「……ほう」
 出されたお茶を一口飲んで、メリーはほっと息を吐く。さっきまで吐いていたため息とは違う、満足の息。
「妖夢の出してくれるお茶はおいしいわね」
「大したお茶じゃないんだけど。お世辞でも嬉しいわ」
 と謙遜の言葉を口にする魂魄妖夢の頬に、すっと朱が差す。素直で可愛い子だとメリーは思う。蓮子もこれくらい素直だったらな……気持ち悪いか。
「お世辞じゃないわ」
 手にした茶碗を宝物のように両手で包みながら、メリーは静かにかぶりを振る。
「このお茶もこのお団子も天然のものだもの。それだけで、私たちにとっては絶品よ。ああ、もちろん入れてくれる人の腕前もあるけれど」
 案外、蓮子がここを気に入っているのも、手入れの行き届いた雄大な庭と、気さくで明るい亡霊のお嬢さまだけではないのかもしれない。(主にこの屋敷の主人のために)大量に出されるというお茶とお菓子も目当てだったりして。
 そんなことを考えるくらい、メリーにとってこのお茶は貴重なものなのである。
「……ここには、これが楽しみで来ているようなものかしら」

 実のところ、メリーにとって白玉楼を訪れる楽しみというのはこれくらいのものである。
 この場所を気に入ってるのはもっぱら彼女の友人(「親」を付けるべきかどうかは少し迷っている)の宇佐見蓮子であり、メリーは彼女に付き合ってここを訪れているに過ぎない。
 というか、色々あって蓮子一人ではここに来ることが出来ない。彼女がここ白玉楼(に限った話ではないのだけれど)を訪れる為には、メリーの「目」が必要なのだ。というわけで、今日も今日とてあの友人に引きずられ、ここまで来ているのである。

 白玉楼の山門を直に見るのはこれが四度目。一度目は満開の桜が咲いた秋。二度目はその桜もすっかり葉桜に変わった初冬、三度目は初夏、こちらはようやく寒さが引き始めた頃、四度目は今。こちらは間近に春の息吹を感じ始める頃で、私たちの服はまだ布の量と厚みが多め。そして白玉楼は盛夏の装い。
 メリーが妖夢と初めて会ったのは二度目に訪れた時だ(よく知らないが、一度目は突然の客人に応対するような場合ではなかったらしい)。
 その時は、堂々と門をくぐった蓮子を見つけた妖夢が腰の刀を抜いて、ちょっとした騒ぎになった。結局はこの楼閣の主人の取りなしで事なきを得たそうだとメリーは聞いている。彼女はその場に居合わせなかったので。
 その後、蓮子が「入り口のところで友人が待っている」と言ったらしい。なので妖夢がせっかくだからとお茶を持ってきてくれた。二人はもののついでに軽く自己紹介をして、とりとめのない世間話をして別れた。
「そういえば、この前に来た時のこと、憶えてるかしら? 私にお茶を出すなり石段を駆け下りていった時」
「……あー、憶えてる。あの時は忙しかったもんだからね」
 妖夢は苦笑いしながら、両手で丁寧に持った茶碗を傾ける。刀なんて下げた豪放な身なりとは裏腹にこういうところは妙に丁寧というか、礼儀正しいなとメリーは感心する。
「何が忙しかったの?」
「巫女とか魔法使いとかを斬りに行っていた」
 ……まあ、それが「こちら」の常識なのだろうと、メリーは納得することにした。

 よーうーむー。
 妖夢の口にする、鬼を斬る話が佳境に入ったところで、山門の奥の方からかすかな声が聞こえた。
 その声を耳にするなり、まず少女は渋面を浮かべ、それからたはーと深く息を吐いて、苦笑いした後に立ち上がる。
「ごめん。たぶんお団子が切れた……。
 まったく、なんでこんなに早く無くなるのかしらね。あんなにたくさん用意したのに」
「あ、じゃあこれ」
 メリーは碗をくいっとあおって残りのお茶を全て飲み干すと、妖夢が持ち上げたお盆にそれをコトリと乗せる。
「お嬢さまによろしく。あと蓮子に、待ちくたびれたから、早く帰って来なさいって伝えて」
 妖夢はうなずくと、お屋敷の中へ足を向けて……それから、メリーの方を振り返った。
「なら、メリーも一緒に来れば? 折角だから、白玉楼の自慢の庭とかも見てもらいたいし」
 にっこり笑って妖夢が手招きをする。ああそれは、きっと心からの善意なのだろうなとメリーは思った。
 それだけに、彼女の申し出を拒むのは心が痛む。
「ごめんなさいね」
 妖夢は少しの間、「残念」と「不思議」が半々くらいの表情でメリーの顔を見ていたが、屋敷の方からもう一度彼女を呼ぶ声がしたので、無理強いはせずに戻ることにした。

「や、お待たせ」
 それから程なく、宇佐見蓮子は屈託のない笑顔でメリーに手を振った。
「遅いわ」
 それだけ言うと、メリーは先に石段を下り始めた。蓮子は少し早足になってそれを追いかける。
 不思議なもので、この果てしなく長い石段は、何故か二人の少女には登るのも降りるのも苦では無かった。
 見た目こそ石段だが、平らな地面を歩いているような感覚。蓮子は何やら妙な理屈を唱えていたが、メリーはもっと単純に考えている。夢の中では全速力で走っていても意識さえしなければ疲れるどころか息が切れることさえ無いのだと。
「そんなに待つのが嫌なら、貴女も入ってくればいいのに」
 すぐにメリーに追いついた蓮子は、隣に並ぶと腰をかがめて顔を覗き込む。メリーははあ、とため息。その顔は出来の悪い子供に簡単な算数を教え込もうと頑張る教師のもの。
「前にも言ったでしょう、蓮子。
 私はそうやって安易に物事の境界線を越えたくないの。
 好奇心のまま変なところに飛び込む猫度満点の貴女には分からないかもしれないけどね」
 にこにこと笑いながら、蓮子は「うん、分からない」と事も無げに答えた。
 まあ、メリーも彼女の理解には期待していない。
 友人の苦悩を解するなら、最初からこんなところまで引きずり回したりはしないだろう。
 少女は自分の前髪をぐしゃりとつかむ。
 そうだ。彼女には絶対に分からないのだろう。
 私がどれほど深い苦悩を抱えているのか。


「怖いのよね。
 こうして当たり前のように境界を見て、当たり前のようにそれに触れて。
 そんなことを続けてたら、いつかは境界を越えることにも何の抵抗を持たないようになってしまわないかって。
 境界っていうのは、蓮子、何の為にあると思う?
 異なる世界同士を隔てる為にあるのよ。
 それを曖昧にしてしまったら……その時の私は、どちらにいるのかしら?
 ううん、きっとどちらでもない、私自身曖昧な存在になってしまうのよ。
 そうなった時……私は本当に私なのかしら。『マエリベリー=ハーン』という存在であり続けるのかしら?

 怖いのよね。
 自分自身が得体の知れない存在に変わってしまいそうな気がして。
 だから私は怖れているのよ。境界を越えることを。
 あの山門だってそう。
 あの門は何か、越えてはいけない。そう思わせる何かを感じるの。
 あの門をくぐったら、見てはいけない何かを見てしまいそう。
 あの門をくぐったら、会ってはならない誰かに遭ってしまいそう。
 今の私を壊してしまう、何か」

「あっはははははははははははははははは!」


 自分の言葉を不意に遮る嬌声。
 メリーは唖然として、身体をくの字に折り曲げて笑う蓮子を見た。
 彼女の視線を受けながら蓮子はまだ笑い続け、肺の中の酸素を使い果たしてヒーヒーと息を吸って、まだ震える肩を何とか静止させた後、くるりとメリーの前に回り込んだ。


「貴方はメリーよ。魔術師メリー。
 この宇佐見蓮子が言うんだから、間違いなく紛れもなく、貴方はメリーよ、メリー。

 どうしても怖いのなら、私が手をつないであげる。
 貴方が迷わないように手をつないであげる。
 貴方がどちらに行ったらいいのか分からないのなら、つないだ手をぐいと引いてあげるわ。
 こっちが貴方のいるべき場所だ、ってね。

 だからね、そんな怖がらなくても大丈夫よ。たぶん」


 宇佐見蓮子は、にっと笑って、自分の手をメリーに差し出した。


 メリーは、今日何度目か分からないため息をついた。
 そういう時くらいは本名で呼ぶものじゃないだろうか。なんて格好がつかないんだろう。


「……って言うか、何よそのバカ笑いは」
「だって、そんなつまらないことで悩んでるなんて知ったら、馬鹿馬鹿しくてねえ。思わず」
「何が馬鹿馬鹿しいのよ。私は真剣に悩んでるんだから」
「馬鹿馬鹿しいものは馬鹿馬鹿しいじゃないの。馬鹿馬鹿しいと言う以外に何て言うんだか」
「そんなにバカバカ連呼するな、バカ蓮子」
「あ、今の面白い」
 再びケタケタと笑いながら、蓮子は一目散に石段を駆け下りていく。
 メリーも堅い石段を蹴って、ぴょこぴょこと跳ねる黒帽子の少女を追いかける。

 石段を降り切れば、そこはまた少女たちの世紀。



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