久しぶりの夜の散歩。
今日はどこに行こうかと胸を躍らせていた彼女の耳に、かすかな声が聞こえた。
それは、確かに、歌声。
− 真夜中のコーラスレッスン −
夜は、いい。
ざわついた昼の空気に比べて、落ち着いた夜の空気は、歌声もよく乗る。
特に今夜のような月無し夜は最高だ。地上は暗闇に包まれて何も見えない。見えなくなる分、聞こえやすくなる。音も、声も、歌も。
森の中、一際高く伸びた樹上に立って、軽く胸を反らし、ミスティア=ローレライはその歌声を響かせていた。
(歌うのが好き)
胸一杯に吸った息に詞と律を与えて、めいっぱい喉を震わせる。頭の中は、自分の発する音に次の瞬間どんな変化を与えるか、それを考えてぐるぐるになる。
弾幕の中で感じる興奮とはまったく違う味の快感。
(私は、歌うのが好き)
彼女の歌を聞きつけて、森中の色々なものがやってくる。獣、虫、鳥、妖怪、精霊、エトセトラエトセトラ。
ミスティアは自分の胸に当てていた両手を広げる。
それが合図。
眼下で自分に感動の眼差しを向けていた一匹の精霊に指を向ける。精霊はまず驚き、それから緊張と興奮の面持ちで息を吸い、口を広げる。
歌が変わる。
ミスティアの両手が縦横無尽に動く。指されたものはその指示に合わせて音を発する。彼女の手が動くたびに音が生まれ、小さくなり、大きくなり、消え、また生まれる。ミスティアひとりだけのものだった歌が、あっという間に周囲一帯を包み込んだ大合唱になる。
(私は、歌うのが大好き!)
自分の生み操る音色に陶酔しながら、ミスティア自身もさらに高らかに歌う。今この夜、この瞬間、最高の快感を味わおうと。共に唄い歌うモノたちもその思いを同じくし、さらに同じ思いを求めるものが彼女の指揮の下に集まってくる。だから彼女は、やはり自分の歌に惹かれてやってきたその少女に対しても、いつものようにタクトを向けた。
少女は大きな瞳を輝かせて、ぎょくんと喉を鳴らすと、胸一杯に息を吸い込んで、
「ラ゛〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!」
「ダ」だったかもしれない。
とにかく、少女の張り上げたその歌声によって、それまで醸成されていた素敵な夜の空気は完膚無きまでに破壊されてしまった。鳥は怯え、獣は震え、虫は逃げだし、妖怪や精霊は呆然とその少女を見て、エトセトラエトセトラ。
フランドール=スカーレット。
ありとあらゆるものを破壊する程度の能力をもつその少女にとって、この程度のちっぽけな世界を壊すことなど、赤子の手を砕くくらいたやすいことだった。
本人の意思はさておき。
「別に気にしてない」
そう言った彼女の顔は、どー見たって悔しそうに見えた。
結局、その場で歌い直すという行為もはばかられ、集まったモノたちは三々五々に散っていった。
ミスティアも、正直に言えば興がそがれた部分がある。憂さ晴らしに弾幕をぶつけてやろうかとも思った(後に「そんなことをしなくて本当に良かった」と心の底から安堵することになるのだが、それはまた別の話)。
音が止まった瞬間の少女の顔を見た。
自分が全てを壊してしまって、愕然としていたあの顔。
頭の中にあった憤りは全部吹っ飛んだ。
少女をこのまま帰してはいけない。そんな衝動に駆られた。
だから、背中を向けた彼女を呼び止めた。
「ウソウソ、気にしてる。まあ私は気にしてませんけど」
「気にしてないってば!」
振り返りざまに、なんか紅い光を撃たれた。でも物凄い大振りだったからよけるのは簡単だった。多分当てる気が無かったか、あったけど狙いをつけなかったか。ともあれこの少女はだいぶ沸点が低いということを、ミスティアは頭の中のメモ帳に書き留める。
それから、努めて優しい声で、
「気にしなくていいよ。私も最初はあんなだったから」
「馬鹿にしてる?」
自分を睥睨する紅い視線に、いやいやいやと首を振る。
「ねえ。私が教えてあげようか? 歌い方」
少女の瞳に一段と険がこもる。だいぶプライドを刺激してるらしい。そういえば身なりも良いし、どこかのお嬢さまなのかしら(後に、あの紅家の妹御にあんな口を叩いたのかとカタカタ震えたりしたのだが、それはまた別の話)。
「聞かせたい人がいるんじゃない? 自分の歌を」
それはカマかけどころの話ではなく、全くの当てずっぽう。根拠も何もあったもんじゃない。
けれど、その問いかけに少女は確かに息を飲んだ。
ミスティアは精一杯優しい笑顔を作ろうと努力して、それから精一杯優しいように見える笑顔で、もう一度訊ねた。
「私が教えてあげるよ。ちっぽけな雛鳥でも、あっという間に素敵な夜雀になれる歌を」
その後、森を一周出来るほどの間押し黙っていたフランドールは、上目遣いでミスティアを見て、
「……本当?」
「任せなさい」
ミスティアは自分の胸をぽんと叩いた。
フランという名の少女が最初に「ガラスを割ったことがある」と聞いた時は流石に冗談だと思ったが、改めて彼女の張り上げる声を聞いて、それが冗談でなさそうだと考えを改めた。道は険しい。
「んーと、まず力みすぎ。もっと楽にして、脚もうちょっと開いて、んー、もう少し身体そらせる?」
ぐいっ。
「痛い痛い痛い!」
チュン!
痛がった拍子に飛び出た魔力弾が髪と羽をちょっぴりかすめた。
道は険しい。おまけに命がけだ。
レッスンは夜に始まって、明け方、朝日が昇る前に終わる。門限が厳しいようだ。
「あーーーーーー」
「ア゛〜〜〜〜〜」
「そうじゃなくて、アーーーーーー」
「ア゛〜〜〜〜〜」
「だから、アーーーーーー」
「ア゛〜〜ーー〜〜?」
「今ちょっと出来てた!」
白みかけた東の空に向かってありったけの大声を出す楽しさも、いずれは教えてあげたいな。
学習速度は遅い。
「ア゛〜〜〜〜〜〜」
「……戻っちゃってるなあ。昨日の最後の方の感覚、思い出せる?」
去り際の彼女に、さりげなく聞いてみた。
「家では練習したりとか出来る?」
「出来ない。うちにはすごく耳の良いヤツがいるから。
……そいつに聞かれたら、お姉様にもすぐに伝わっちゃう」
「そうか……うん、頑張ろう」
背中を軽くぽんと叩くと、フランもうんってうなずいた。
聞かせたいのはきっとその人。
雨の日はお休み。雨音がうるさくて練習にならない。
きっと彼女もやきもきしながら空を見ているんだろう。今の私のように。
秘密の練習でなければ、彼女の家で出来るんだろうけどね。
「ミスティア、前に言ってたよね。最初は下手だったって」
休憩中、フランがそんなことを訊ねてきた。私はうなずく。本当のことだからだ。
「今にして思えば、ちょうどフランと一緒なのよね。たまたま通りかかった森の中で、
すごく素敵な音色を耳にしたのよ。それに誘われて……」
今でも鮮明に思い出せる。三重奏に合わせて響く澄んだ歌声。それに聞き入っているうちに、私もそのハーモニーの中に混ざりたくなって、声を出した。
その時の私は本当に雛鳥だった。素晴らしい音色を千々に引き裂いてしまった。驚いた演奏者たちが私を一斉に見て……輪の中心に立っていた女の人が声をかけるのがあと一瞬遅かったら、私は逃げ出していた。
「こんにちは、可愛いお嬢さん。
姉さんたちの演奏で、私以外の人が歌うのを聞くのは久しぶりだわ。
良かったら、もう少し聞かせてくれないかしら?」
彼女はとても優しそうな笑顔で私を迎えてくれた。だから私は、あの人達の輪に入ることが出来た。
彼女はとても優しく、私に歌を教えてくれた。だから私は、雛鳥から、夜雀になれた。
「その人がミスティアの先生なんだね」
「うん。あの人が……あの人達がいたから、歌を好きになれた。今の私があるのはきっと、あの人たちのおかげ」
「ふーん……ねえ、今はどうしてるの? その人」
フランはわくわくした表情で私を見上げる。自分も会ってみたいと思っているのかもしれない。私は彼女のように優しく笑おうとしたけど、やっぱりちょっとだけ寂しそうな顔になったかもしれない。
「だいぶ昔に死んだわ。その人は人間だったから」
彼女が死んだ時、胸が張り裂けそうだった。私はあふれる感情のまま、啼いた。啼いた。夜通し啼き続けた。朝日が昇って、空が真っ青になって、日が傾いて、赤い空が藍色に変わって、再び夜が来て、月を仰いでまだ啼き続けた。
私の肩にとまっていた鳥が、悲しそうに啼いた。近付いてきた獣たちが啼いた。虫も啼いていた。妖怪も、精霊も、私の声に合わせて皆啼いていた。
「……ローレライって名前を使い始めたのは、その時から。
歌を歌って人と妖を狂わせる妖怪になったのは、その時から」
ちらりとフランの顔を見ると、少しだけ悲しそうな顔をしていた。
いけない。この歌はいつも、周囲を悲しい気分にさせてしまう。
辛抱強く練習を積み重ねた成果が現れてきている。
コツをつかんだのだろう。声に張りとツヤが出てきた。
「スターボウブレェーーイクッ! って叫ぶ時の感じなのよね」
よく分からないけど、フランが分かってくれてるならいいや。
フランを夜会に招待する。
最近彼女につきっきりで、私のリサイタルを楽しみにしているという知人一同からの「お願い」が増えてきたので、ならばいっそ両方を兼ねてしまえ、ということで。
最初、コンサート会場に集まってきたモノたちは、フランの姿を見てざわついていた。皆、先日の騒ぎを覚えているのだろう。露骨に怯えたり、眉をひそめるモノもいる。
フランも柄にもなく萎縮している。まあブチキレて炎剣を振り回されたりしなくて良かったけど。
そして私は、こういう時にどうすればいいかを知っている。
「フラン。歌い出しは貴方に任せる」
傍らに立つ彼女に耳打ちをすると、狼狽した声が返ってきた。
「ええ!? そんな、無理……ミスティアが先に出てよ」
「私が先に歌い出すと、貴女は追いつこうと思って必死になる」
フランの紅い瞳をまっすぐに見つめていると、遠い昔に私の目をまっすぐ見つめていた深い色の瞳を思い出す。その時、私にしみこませてくれた言葉も。
『それではダメなの。いい歌っていうのは、楽しい気分にならないと歌えないものなのよ』
だから私は、その大切な言葉を、そのままフランに伝えてあげる。
「わくわくしてこない? これから始まるとても素敵な歌は、まず貴女の声から始まるのよ。
背筋を伸ばして、胸を張って、大きく口を開けて、始めようフラン。私たちの歌を」
フランは私をじっと見ていたが、やがて「うんっ」と力強くうなずいた。
そして私の教えた通りに、背筋を伸ばして、胸を張って、大きく口を開いて。
Ah―――――
なんて綺麗な澄んだソプラノ。
これが自分の声でガラスを割った女の子の声よ! みんな信じられる!?
一瞬、そう大声で訴えたい衝動に駆られたけど、その衝動も一瞬で枯れた。
私は何より歌が好きだから。
その声に自分の声を重ねる以外に、まず何をしろって言うの!
La―――――
フランがちらりとこっちを見て、またすぐに自分の歌に集中した。
でもその口元は、さっきよりほんのちょっと上がっている。それは素敵な歌を歌うために、何より大事な口の形。
さあ歌おう。私はいつものように、両手のタクトを揺り動かす。
夜は始まったばかり。
私たちの素敵な夜は始まったばかり。
歌声の咲く宴が終わり、フランと別れた後、ミスティアは別の知り合いに妙に感心されていた。
「凄いねミスティア!」
「あんな妖怪と知り合いだなんて!」
フランのことを言っているのだろうと思って、折角なので彼女のことを訊いてみることにした。
肝を潰した。
と同時に、色々なことに納得したりした。
夜しか来ないこととか、雨の日はお休みという約束に大人しく従ったこととか。
「まあ、でも……」
次の夜。太陽が地平線の影にすっかり姿を隠して間もなく。
星よりも月よりもまぶしく輝く笑顔を浮かべて猛スピードで飛んでくる少女の姿を見る限りは、「悪魔の妹」について伝え聞くような恐ろしさはミスティアの心の中には全く生まれなかった。
「あのね、あのね!」
フランはスピードを緩めず、ミスティアに抱きついてくる。物凄い勢いだったので受け止めるのに苦労したが、羽をばたばたと動かして何とかキャッチ&セービング。
「昨日、とっても楽しかった! 家に帰ってベッドに入ってもね、胸がドキドキしてなかなか眠れなかったよ! 今もまだドキドキしてて、出かける時咲夜に『とても楽しそうですね』って言われて、バレちゃうかと思った!」
その興奮ぶりはミスティアにも覚えがあった。その時の自分も今の少女のように無邪気な笑顔を浮かべていたんだろう。
よーしよーしとふわふわの金髪を撫でてあげてから、ミスティアはやんわりと身体を離す。
「それじゃ、そろそろ本懐を遂げる準備をしますか」
そう言ってウィンクすると、フランはきょとんとした顔をしていた。
昨日の出来事の印象があんまり強かったせいで、本来の目的を忘れてしまっていたようだ。
実は、曲目は既に決めてある。
以前にフランが「お姉様」と言っていた時から、ミスティアは自分の知るある歌を彼女に教えてあげようと思っていた。
それはミスティアにとって、思い出深くも自分が歌うにははばかられる歌だったけれど。今のフランにはぴったりだと思ったからだ。
一度フランに聴かせてやる。しばらく口にしていなかったが、それでもきっちり歌うことが出来た。
「うーん……」
聴き終えたフランは難しい顔で腕組みをしてた。
「あー、気に入らなかった?」
「ううん。すごく素敵な歌。私も歌いたいけど……お姉様のイメージに合わなくって……」
気に入ってくれるかな、と不安そうな顔のフラン。
ミスティアは苦笑する。いや、私もそう思う。あの夜王にはちょっと合わないのが困りもの。
でも、大切なのは歌い手の気持ち。
学習速度は速い。
一度コツをつかんでしまえば覚えは良いらしい。
「La――――」
というか、上手い。
頑張るフランを見ながら、私もちょっと自分の練習時間を増やそうと、ミスティアは密かに心に決めた。
「伴奏があるんだったら、付けられないかな」
休憩中。ミスティアがぽろっとこぼした「この曲は本当は伴奏があるんだけど、私がソロにアレンジした」という言葉に、フランは目を輝かせて食いついてきた。
「いやーでも、流石に無理よ。人数いないし」
「人数? 少しだったら増やせるよ」
フランはスペルカードを取り出すと、その力を解放する。彼女の周囲に少女の映し身が三つ現れ、合わせて四つの顔が一斉にミスティアに笑いかけた。
「「「「どう?」」」」
ミスティアは腕組みをして、んー、とうなると。
「四人ばらばらに歌ってみて」
「「「「…………それは、流石にムリ」」」」
揃って肩を落とすカルテットに、ミスティアは思わず吹き出す。人数は合ってるってことは内緒にしておこう。
「う〜ん……ミスティア、手伝ってくれない?」
一人に戻ったフランが、くいくいと袖を引っ張る。まだ未練があるらしい。でもそれはダメだ。
「貴方一人で歌うところに意味があるのよ」
あっという間にXデイが到来。
本来はいる必要のないミスティアだったが、フランに「どうしても側にいて」と言われたので誘われることにした。
ミスティア自身は紅魔館に赴いたことは無いし、遠巻きに見ることはあってもこれだけ近付いたことは一度も無かったので、その紅いお屋敷の持つ威圧感に気圧されそうになった。
「そこの鳥、どちらさま?」
紅いお屋敷っぽく、紅い髪の門番が誰何してくる。
「夜雀のミスティア=ローレライよ。こちらのフランドール=スカーレット様に招待を受けているわ」
そう言うと、門番はああはいはいと言って通してくれた。話は伝わってるようだ。
メイドがひとりついて、フランの部屋まで案内してくれた。
条約で保護されてる稀少生物なのに、この屋敷の中には随分たくさんいるんだなと感心した。
「あ、ミスティア、おはよう」
今は夕方。だからフランの挨拶は「おはよう」。
「おはよ、フラン。聴きに来させて頂いたわ」
「ありがと。少し待っててね。食後のお茶の時間に披露することになってるから」
分かったとうなずいて、それからミスティアは彼女の部屋を見渡した。
「うわっ、見回さないで。恥ずかしいよ」
「別に恥ずかしいものを見つけようと思ったわけじゃないけど……ここじゃ反響が良すぎて、練習は出来ないわねって思っただけ」
地下室、しかもとりわけ頑丈に作られているらしいこの部屋は、音が響きすぎて、本当の音が聞こえなくなる。
ついでに、ガラスを割ったというのもやはり嘘ではなさそうだなと納得した。あの頃の声をこの部屋で出せば、コップくらいは砕け散ってもおかしくなさそう。
「食事は? 食欲無くても、ちゃんと食べないとダメよ」
「ミスティアが来る前に済ませようと思って、早めに食べた」
「よし。ならオッケー」
親指と人差し指でマルを作ってやると、フランもにこっと微笑んだ。
「歌を歌うって言った時、なにか言われた?」
訊ねながら、部屋の中にひとつだけあった椅子に腰掛ける。多分フランのだろう背もたれの低い椅子は、羽が窮屈でないのでミスティアにも座りやすい。
「最初は驚いてた。パチェも、あ、パチェっていうのは姉様の友達で、いつもこーんな風に半目なんだけど、それが珍しく目をぱっちり開けてね。咲夜は、あ、えーと」
「銀髪の人間のことなら知ってるよ」
というか、ちょっとした因縁がある。
「ああ、そうなんだ。で、咲夜は血相を変えたりしてたけどね。あれはちょっと失礼よね」
そうね、と愛想笑いを浮かべながら、心の中ではそりゃ無理ないよとミスティアは呟いた。ガラスを割る歌声しか知らない子がいきなり歌を聴いてなんて言い出したら、誰だって驚く。きっと驚く。
おしゃべりを続けながら、ミスティアはフランの様子を観察している。
やはり、どことなく堅さが見えた。
巷では破壊の権化とか言われてても、やっぱり心の中は幼い女の子なのか。
それとも、相手が姉だから緊張しているのだろうか。
こういう時は「緊張するな」なんて言っても効果がない。
だからこうして、何気ないおしゃべりで気分をもみほぐすのが一番。
ドアがノックされる。メイドが呼びに来たのだ。
「う、うん、今いく!」
扉越しに答えて、それからフランはもう一度帽子がずれてないか、ちょいちょいと触る。
「よ、よーし、頑張るぞ!」
右手と右足を同時に前に出して、少女は意気揚々とステージに向かった。
そこは、夜へと移り変わる夕方がよく見渡せるテラス。
フランに続いてその場所に入ったミスティアは、メイドに促されて観客席に向かった。
「って、よりによってあんたの隣!?」
「当然じゃない。貴方も主賓よ、フライドチキン」
しかもばっちり憶えられていた。
「なかなか良い先生ぶりみたいね。あの子、毎晩嬉々として『散歩』に出かけてたわよ」
「いやあ、まあ、その」
「私からも礼を言わせてもらうわ。ありがとう」
「はあ、どうも」
ミスティアは曖昧にうなずく。
あの時はとんでもなく剣呑な会話の末、容赦ない弾幕で叩き落とされた相手にこう言われると、なんとも対処しづらい。
ミスティア、レミリア、咲夜、パチュリーの四人が見つめる先で、フランが静かに一礼する。
緊張に強張った顔を見て、ミスティアは内心ヒヤヒヤしていた。この土壇場であの破壊音波に戻ってしまったらどうしよう。
少女が小さな口を開いて、胸の中に息を吸い込み、
Uh――
杞憂だった。
あの夜からさらに研鑽を積んだ歌声は、ミスティアの耳にもとても心地よく響いた。ああフラン、今日からローレライを名乗りなさい。
前奏部分のハミングを終えて、少女の声が音色と共に詞を紡ぐ。
―― いつも私を気遣ってくれる優しいあなた 心から感謝しています
いつも私に笑顔をくれる明るいあなた 心から感謝しています
いつも私に構ってくれる楽しいあなた 心から感謝しています
いつも私とずっと一緒にいてくれる 私の素敵なお姉様に
ありがとう ――
それは、妹が愛する姉への想いを込めた唄。
永遠に尽きることのない愛情を伝う唄。
フランが姉の為に歌うならこれしかないだろうと思って、ミスティアはこの唄を教えてやった。
隣で、レミリアがふっと息を吐いて、小さく笑う。
それは嬉しそうでもあり、辛そうでもあり、悲しそうでもあり、楽しそうでもあった。
―― 響き届け この思い 風に乗り世界の果てまで
永久の時を越え 貴方のところまで ――
最後の一音を歌い終えたフランが、おずおずと視線を上げた。
彼女を見る四人は微動だにしない。
それが少女の不安をかき立てる。
実際、そのうち三人は、真ん中の一人の反応を待っていたのだが。
「参ったわね……とても困ったわ。
私は、貴方にそんなに思われるような、いいお姉さんでは無いと思っていたけれど」
レミリア=スカーレットは、そう言って目を伏せた。
彼女の瞳は感激に潤んでいて、これ以上妹の顔を見ていると、みっともない姿を見せてしまいそうだから。
「ありがとう、フラン。とっても素敵だったわ」
「……お姉様ぁ!」
感激のあまりレミリアに飛びつくフランに、パチュリーとミスティアが一斉に拍手を送る。
ちなみに咲夜は、フランが姉に飛びつく際に蹴っ飛ばしたテーブルを元の位置に戻すのに時間を要した分、一瞬遅れた。
「と、いうわけでめでたしめでたし。今度はお嬢様が妹様に唄を教わっているわ。当分屋敷内で歌声が尽きることは無さそう」
明くる日。ミスティアの元を訪れた十六夜咲夜は、そう言って瀟洒に微笑んだ。
「そう。そりゃ良かったわ。私も教えた甲斐があったってものよ」
「それはそれとして、あんたもたまにはうちに来ないかってお嬢様が言ってるんだけどね。妹様や自分にレッスンを頼むって」
並の妖怪からすれば、それはかなりの栄誉であることだ。何せあの紅い悪魔にその能力を認められたということなのだから。
けれどミスティアは咲夜の申し出を鼻で笑う。
「残念だけど結構よ。あの館は私に合わないわ。こうして空の下で歌ってる方が、気楽でいいもの」
「あらあら。随分プライドの高いストリートシンガーね」
「それに、あのお嬢様には教えるつもりないし」
「……あんた、あの時のこと、実は結構根に持ってる?」
呆れ顔の咲夜に、ミスティアは笑顔で、いやいやと首を振って否定する。
「フランにならいくらでも教えてあげる。だからいつでも来なさいって伝えておいて。
お嬢様はそのフランから教わればいいでしょ」
その方が、妹も姉もきっと楽しいだろう。
だから絶対にその方がいい。
唄ってのは楽しい気分で歌うものなんだから。
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