その夜はやけに蒸し暑くて、彼女はどうにも寝付けないまま、布団の上で悶々としていた。
 時折揺れる風鈴の音も、いつもならば涼やかな音色に心が落ち着く筈なのに、今夜に限っては妙に耳障りだ。
「……ダメだ、寝られないわ」
 身体を起こすと、襦袢の衿をはたはたと仰ぐ。じっとりと汗をかいた肌に当たる空気がかき回されて、多少は気が落ち着く。
 だが、体中にしみ込んだ熱気は、それっぽっちではやはり追い払えない。
「水行でもするかぁ……」
 用心のために袂に符と針を放り込むと、立ち上がって寝所の障子を開く。外に面した廊下は、今は夜の風を入れるために戸をめいっぱい開け放っていて、外の景色がよく見えた。
「なるほどねえ……」
 雲一つ無く冴え渡る空を見て、少女は納得した表情でうなずいた。

 今宵は満月、しかも血のように紅い満月。
 どうりで空気がざわつくわけだ。

 足先につっかけをひっかけて、少女は庭に出る。水場に行くにはこうした方が近い。
 耳を澄ませば獣の遠吠えが聞こえそうな夜の下、自分の歩みに合わせて動く紅い月を、彼女は何の気無しに見上げながら歩いていた。
 こんな夜に必ず連想する、ある少女の姿を脳裏に描きながら。

 だから、紅い真円が、この博麗神社の鳥居にかかった時に。
「良い夜ね」
 そう声をかけられた時も、彼女はこれっぽっちも動じなかった。
「私にはあんまり良くない夜だわ」
 一陣の風が吹いて、頭上を見上げる少女の黒髪を揺らす。
「ふふ……こんなに月も紅いから?」
「そうね。こんなに月も紅いから」

 紅い月を背に、朱い鳥居の上に立って、身にまとった白いドレスをはためかせて。
 その吸血鬼はその赤い眼で、少女を見下ろしていた。



 - 紅翼憐瞳 -



「はい」
 襦袢姿のままでお茶の支度をした少女は、ふわりと湯気の立つ湯呑みを真夜中の客人の側に置いた。
 ちなみに水行はとりやめにした。水を滴らせたまま応対するのはやはり失礼だし、そもそもいくら同性とはいえ、水浴び後の姿を見られるのは流石に恥ずかしい。
「紅茶がいいのに」
「あいにく、年中切らしておりますわ」
 なので、熱いお茶を飲んで涼むことにする。
 縁側に座って月を見上げる吸血鬼の隣に座って、少女は湯気の立つ茶碗に口を付け、ずずずとすする。隣から嫌そうな視線が注がれている気がするが気にしない。お茶は好きなように飲むもんだと昔の偉い人は言っていた、ような気がする。
 飲めるぎりぎりの温度まで熱くしたお茶が胃の腑に落ちて、そこから広まっていく熱は、今夜の熱気のようないやらしい暑さではなく、体中を駆け巡ってすーっと逃げていく。暑い日に冷たい飲み物を飲むなんてのは軟弱な妖怪か軟弱な魔法使いのすることだ。
 ほう、と口からも熱気を吐いて、それから彼女は傍らの吸血鬼を振り返る。
「それで? どうしたの?」
 問われた彼女は、供されたお茶には未だ口を付けず、やはり血のように紅い爪でその縁をチン、チンと弾いていた。
「素敵な夜のお散歩よ」
「それで、わざわざうちまで来たの?」
「ロマンチックじゃない。夜の境内なんて」
 少女は口の中だけで笑う。何を言っているのだか。あれはどう見たって私を訪ねて来たのではないか。

「ここに来るのも久しぶりね」
 彼女の呟き。
 ああそうねと、少女も肯定する。実際、彼女の姿を見るのも久しぶりだった。
「もう一年くらい経ってしまうのかしら?」
「ええ、そうね。確か最後に出会った時も、こんな熱い夜だったわ」

 そして二人は、同時に空を見上げる。

「……あいつがいなくなって、もう一年も経つのね」
 少女がぽつりと呟く。吸血鬼の赤い瞳が、一瞬、寂しそうに哀しそうに、揺れた。

 少女は小さく、うん、とうなずいて、漆黒の瞳に紅い月を映す。
 今傍らにいる吸血鬼同様、あいつとも、こんな紅い月の浮かぶ夜に初めて出会ったのだということを思い出す。
 幻想郷を覆い、太陽を隠す紅い霧。少女はその事件を解決する為に幻想郷を駆け、この吸血鬼が居城としている屋敷――紅魔館で、彼女と出会ったのだ。
 その事件以後、なんのかんので打ち解けたり、再び弾幕を交わらせたりしながら、少女はその館の住人たちとずっと付き合いを続けていた。
 少女の小さかった背丈が伸び、身体が女性の曲線を帯び、垂らした髪がすっかり長くなっても、彼女たちは変わらず、初めて出会った頃のままのようなつかず離れずの付き合いを続けていた。
 一年前までは。

「もっとずっと一緒にいられると思ったのに、なんであんなに早く、いなくなってしまったのかしらね」
 傍らの彼女の声は、腹を立てているようにも、呆れているようにも、寂しがっているようにも聞こえた。
 まあ、そんな態度も無理はないだろうと、少女は思う。あいつはいつも、隣に座っている彼女のすぐ側にいたのだし、当然お互いに深い信頼関係を築いていた。その関係をほぼ一方的に断ち切られてしまったのだから、まあ彼女にはそんな顔をする権利があるってものだろう。

「その後はやっぱり大変だったみたいね」
 少女は中身を飲み干された茶碗に、お茶を新しく注ぐ。
「まあ、それはね。何せ屋台骨が折れたようなものだし。
 ……でも、それほど混乱したってわけでも無かったのよ。備えは、出来ていたから」
 備えは、出来ていた。
 吸血鬼の吐いたその言葉の意味を、少女も分かっている。
 『運命を操る程度の能力』を持つ彼女は、やはり離別の時を予見していたのだろう。その日の為の準備を周到に整えていたのだ。
「知ってるわよ。分かってた筈のあんたがずーっとふさぎ込んでいたのが一番の障害だったんでしょ」
 わざと意地悪そうに言ってやる。彼女は「まあね」と苦笑いを浮かべた。
「っていうか、なんで知ってるのよ」
「主に魔理沙から聞いたわ」
「ああ、そうね。あいつは割と入り浸ってたものね」
 納得したとうなずいて、彼女は湯呑みを手に取った。ふうふうと息を吹きかけて、妙に慎重に口を付けると、音を立てずに静かに飲む。邪道な飲み方だと少女は思う。

「紅魔館は、もう?」
「ええ。前の通り、とは勿論行かないけど、もうすっかり以前の落ち着きを取り戻したわ」
「それは何よりね」
 少女の脳裏に、紅魔館の見知った面々の顔が浮かぶ。やはり色々と撃ったり撃たれたりの仲だが、それでも彼女たちの顔が悲しみに沈んでいるよりは、呆けた顔で門の前に立ってたり、冷めた視線を分厚い本に落としていたりする姿の方が彼女たちらしくていい。
「で、新しい従者も雇い入れたわ。まだ入り立てで発展途上だけどね、可愛いわよ」
「へえ、そうなの。名前は? あんたがつけてあげたんでしょ」
「十六夜咲夜」
「またその名前?」
 少女はくすくすと肩を震わせる。当たり前でしょと微笑み返す吸血鬼の顔は、月の光を受けて紅く染まっていた。
「紅い月にかしずく従者の名は、昔から十六夜咲夜って決まってるのよ。
 真っ直ぐ飛べるようになったら、ここにも連れてくるわ」
「楽しみにしてる」

「さてと」
 彼女は立ち上がると、紅い翼で夜気をばさりと一度叩く。
「あら、もう帰るの?」
「もうだいぶ遅い時間だしあんまり長居するのも悪いからね。普通の人間はもう寝てる時間でしょ」
 それもそうか、と少女はうなずく。
 日頃から妖怪の相手をすることがそれなりに多いせいで、こうして誰かと語り合っているとついつい昼と夜の境界を忘れてしまう。
 そして「人間の時間」なんてことに気を遣ってくれる妖怪など滅多にいないのだが、それはやはり、人間の時間、人間の生活というのをよく知っている、この吸血鬼ならではなんだろう。
 少女も立ち上がると、彼女の後について歩いた。せっかく来たのだから、見送るくらいはしてやったっていいと思った。
「それじゃあね。久しぶりに逢えて楽しかったわ」
「あ、ちょっと待って」
 翼を広げて飛び立とうとしていた吸血鬼は、少女の呼びかけに応えて振り向く。
 その顔は、自分を見る彼女の貌は、一年前に見たときと寸分変わらぬ作りで、彼女が人間ではないのだということを実感させた。
「呼び止めてごめん。
 でもね、あんたに逢ったらどうしても訊ねておきたかったことがひとつあってさ」
「なに?」
 面白い話かしらねと振り返った彼女は、昔からそうしているように、胸の前で腕を組み合わせた。



「本当に、全部納得してるのかって思ってさ。

 いくら大切なレミリアの為ったって、人間やめても良いってほどだったの?

 ――十六夜咲夜」



 博麗霊夢の放った、その問いかけに、
「魔理沙と霊夢からは、やっぱりそう呼んでもらった方がしっくり来るわね」
 かつて人間だった吸血鬼は、紅い月の従者であった在りし日と同じように、瀟洒に微笑んだ。



 レミリア=スカーレットが紅魔館を去る日は、誰もが想像し得ないほど早くに来た。
 彼女は自分の運命を知ると、真っ先に主だった者たちに、そのことを伝えた。
 紅美鈴は取り乱し、パチュリー=ノーレッジは押し黙り、フランドール=スカーレットは嘆き悲しんだ。
 そして、十六夜咲夜は、真っ先に主に問うた。
『それはもう、避けられない運命なのですか?』
 主は笑顔で、完全に諦めのついた笑顔で、首を横に振った。
『それはもうずっと、避け続けていた運命なのよ』

『でもね。永遠の別れというわけでは無いのよ。
 私が死んだ後、灰を綺麗に集めて、私の棺桶に戻しておいてちょうだい。
 すごく、すごく時間はかかるけど……霊夢や魔理沙とはもうきっと逢えないけれど、私は戻ってくる。この館に』
 紅美鈴は『ではそれまで、この屋敷の門をしっかりとお守りしています!』と意気込んだ。
 パチュリー=ノーレッジは『貴方が帰ってくる時を少しでも早める術を探すわ』と微笑んだ。
 フランドール=スカーレットは『約束だよ! 絶対、また遊んでよね、お姉様?』と縋り付いた。

 そして、十六夜咲夜は。



 神社の境内を吹き抜ける風が、吸血鬼の長く長く伸びた銀髪をすくって、はらはらと舞わせる。
「私から言い出したのよ。吸血鬼にしてくれってね。
 お嬢様は渋ったけれど、そうでなければ蓬莱人の肝を食すって言ったら、うなずいてくれた。
 『本音を言うと、私もまた咲夜に起こしてほしかったのよ』って言ってくれた時は、嬉しかったわね」
 よくもまあ、と霊夢は肩をため息をつく。
「人間やめてまで帰りを待つくらい、レミリアに入れ込んでたの?」
「それもあるわ。でも、それだけじゃない」
 自分を真っ直ぐ見据える霊夢から顔を逸らして、咲夜は頭上の紅い満月を振り仰ぐ。
 そして、それが何よりも愛おしいものであるかのように、手を伸ばした。

「フランドールは幾分成長したけれど、それでもまだまだ幼いし、パチュリーは調子がいつも不安定。美鈴は人望はあるんだけれど、頼り甲斐というか、威厳がない。
 だから私が柱になろうと決めたのよ。
 レミリア様がご不在の間、あの紅い屋根のお屋敷と、そこに住まう全ての者たちを守る為に。
 あの場所は私にとってかけがえのないものだから。
 本当の家族よりもずっと家族らしい、あの妖怪たちを守る為にね」
 かつては敬称で呼んでいたフランドールやパチュリーの名をそのままに呼ぶ彼女は、もう紛れもなく、あの紅い屋敷に住まう者たちの中心に或る存在なのだということを、否が応でも霊夢は実感した。

 そして、咲夜の考えは、霊夢にも理解は出来た。
 確かにレミリア以外の面々を考えれば、咲夜こそが一番適任だったと思う――たったひとつ「人間である」という枷を外したならば。
 だが、理解と納得は別のものだ。
 だって、そんな考え方は。

「その為に……今までの自分を捨て去ってでも?」
 問い詰めるような霊夢の言葉に。
「ええ。今までの自分を捨て去ってでも」
 淀みなくはっきりと、咲夜はうなずいた。

「馬鹿げてるわ。だからって、だからって自分から自分を捨てるなんて。
 貴方は貴方である為に、ここに来たんじゃないの?
 幻想郷の人妖たちはみんなそうじゃない。魔理沙も、紫も、アリスも萃香も幽々子も輝夜も、レミリアだって、みんなみんな!
 なのに、どうして貴方は、貴方は……そんな……!」
 苦々しい表情でかぶりを振る霊夢に。
「どれだけ幻想郷に染まったつもりでも、そういう考えをするってことは、やっぱり私は異邦人ってことなのかしらね」
 咲夜は自嘲気味に肩をすくめた。

 霊夢は肩を落とすと、大きなため息をつく。
「やっぱり、納得できないわ。
 あんたの選択を魔理沙から聞いて、ずっと考えていたけれど……やっぱり、納得できない」
 咲夜は背筋を伸ばすと、皮肉っぽく片眉をつり上げる。
「まあ、そんなものじゃないかしら。
 貴方は博麗霊夢で、博麗で、名も無き殺人鬼でも十六夜咲夜でも無いんだから?」
 彼女の表情は何だかえらく楽しそうで。霊夢はやっぱり分かんないともう一度呟いた。
 だから勿論、あんたはそうしてるのが一番霊夢らしくていいわ、とか咲夜が考えてるなんて、当然分からない。

「じゃ、そろそろ行くわ」
「あー、行ってらっしゃい」
 霊夢に背を向けて一歩を踏み出し、それから咲夜は、あ、と呟いて霊夢を振り返った。
「ん? まだなんかあるの?」
 さっきとは逆の構図だな、とか考えながら、じゃあついでにと霊夢は胸の前で腕を組む。咲夜はそんな仕草など気にもせず。
「今は良いけど、『咲夜』を連れてくる時は、今の私の名前で呼んでもらえないかしらね。
 魔理沙はあの子の前でも私を咲夜って呼ぶから、『咲夜』が困っちゃうのよね。
 まあ、それが楽しいんだと思うけど」
 ふーんとつまらなそうに返事をして、それから霊夢は小首を傾げる。
「それじゃ、あんたのこと、なんて呼んだらいいわけ?」



「イミテイト=スカーレット」
 夜のように黒い翼を広げて、瀟洒に微笑む模造品の紅い月は、高々と空へ舞い上がった。



「分かった。絶対呼んでやるもんか」
 不機嫌そうに答えて、霊夢はきびすを返し、母屋へと歩き出す。
 その背中を空の上から見下ろしながら、吸血鬼は幼子のように無邪気に、ケラケラと笑った。


「魔理沙にもそう言われたわ」



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