最後の一葉

「それじゃ、一葉ちゃん。また来るから」
「うん。またね、お兄さん」

 私は笑顔で、お兄さんの背中に向かって手を振る。
 お兄さんも肩越しに振り向きながら、私に向かって手を振り返す。
 部屋の外に出たお兄さんが、ドアを完全に閉めるまで、私たちはお互いに手を振り合っていた。

 静かになったひとりきりの病室。
 ──はぁ。
 ため息と共に、顔に貼り付けていた笑顔が剥がれ落ちる。

 私はいつものように、午後7時1分を指している部屋の時計を見る。
 午後7時で面会の時間は終わり。
 お兄さんはいつも、時間ぎりぎりまで傍にいてくれるけど、それでもこの時刻を過ぎると帰ってしまう。
 「面会の時間は終わりです」という看護婦さんのアナウンスが響いて、私は一人きりになって、それから恨めしい気持ちで時計を見る。
 最近はすっかり日課になっちゃってる。

 ──はぁ。
 もう一度ため息をついて、身体からふっと力を抜き、倒れ込むようにベッドに横になる。
 お兄さんと話してた時はずっと興奮しっ放しだったけど、今は嘘みたいに熱も冷めて、頭の中はぼんやりしている。

「ん〜……」
 白いシーツの上に広がってる、長い入院生活ですっかり長くなっちゃった髪を、一房すくい上げる。

 お兄さんは、私の長い髪を好きだと言ってくれてる。
 私と話しながらも、しょっちゅう触ってくるので、最近は好きに弄らせている。
 今日は枝毛を見つけられちゃってショックだった。明日からはお兄さんが来る前に手入れしとかないと。

 今日、お兄さんに触れられた場所を自分で確かめながら、お兄さんと話していたひとつひとつを思い出す。
 最近増えたもうひとつの日課に、私はふける。

 今日は、お兄さんが通ってる学校の話が多かった。
 先週ずっと定期テストがあって、赤点ギリギリで何とか補習を免れたとか言ってた。
「補習になったら一葉ちゃんのところに来れなくなっちゃうし、今度は真面目に勉強するよ」
 そう言ってたけど、あの口ぶりだと怪しいな、と思う。ちゃんと釘を刺しておかないと。

 それから、お兄さんの学校の学園祭の話になった。学校はこれから、その準備で騒がしくなりそうだって。
「お兄さんも、忙しくなる? ……あまり来てくれなくなる?」
 上目遣いでそう訊くと、お兄さんは最初、ちょっと困った顔をして、それから笑顔で。
「出来る限り、時間を作るよ。だから心配しないで」
 私の頭をそっと撫でてくれた。

 本当は、その学園祭に行きたいなって言いたかった。
 お兄さんと一緒に行きたいなって、言いたかった。
 でも、そんなこと言ったらお兄さんはきっと困るから、言わなかった。

 他にも色々な話をした。
 お兄さんが来るまでに今日はこんなことがあったとか。
 だんだん寒くなってきたから、お互いに防寒に気を配ろうとか。
 お母さんが持ってきてくれた柿がとても美味しかったとか。
 窓の外に見える大きな木の周りに、自転車がぶつかってすごい騒ぎになったとか。

 さっきまでずっと話をしてた。
 でも今はひとりぼっち。

 胸が切ない。
 ……寂しい。

 布団を頭からかぶると、両肩をぎゅっと抱いて目をつむる。
 孤独な夜が早く去り行くのを待つ為に。
 またあの人と会って、話して、触れ合える明日を待つ為に。


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 眠れない。
 布団から顔を出して、枕元の時計を確かめる。短い針が文字盤の「11」を少しだけ通り過ぎていた。

 頭から布団をかぶってたせいか、身体が少し火照った感じがした。
 少し空気を入れ替えようと、私はベッドから降りると、窓を開け放つ。
 冷たい風がすうっと入ってきて、私の熱を奪っていく。私はそのここちよさに集中しようと、まぶたを閉じた。

「風になって、どこまでも走っていきたい」
 もう何度抱いたか分からない、そんなことは無理だと分かりきっている願いが頭をよぎる。
 ため息。

 目を開けると、私は窓枠に寄りかかって空を見上げる。
 大きなまぁるい月が、空の真ん中で白く輝いてる。その周りにはキラキラと輝く沢山の星。
 この部屋から何度、こうして夜空を見上げたんだろう。
 同じ月を見上げているんだろう。

 悲しくなって目を伏せた時に、それに、気付いた。
 病院の門の前に止まってる一台の自転車。
 それに乗って、こちらに手を振ってる男のひと。

 自分でもびっくりするくらい、私の身体はびゅんっと動いた。
 手近な紙を手に取ると急いでペンを走らせて、ぐしゃぐしゃと丸めるとえいやっと外に放り投げる。
 それから、スリッパを探すのももどかしくて、裸足のまま廊下に飛び出した。

 息が苦しい。頭がぐるぐるする。膝はがくがく震えて、ちょっと気を抜いたら座り込んじゃいそう。
 でも、胸がドキドキしてるのは、5階から1階まで階段を駆け下りた、それだけじゃない。
 見つからないよう、誰もいないことを確認して、私はある部屋に忍び込む。
 第1病棟1階、3号病室──今は、空き部屋。

 「3号病室の外まで来て」と書いて放った紙を、お兄さんは拾ってくれただろうか。
 もし気付いてくれてなかったら。それとも、投げた紙が見つからなかったりしたら。もしかして樹に引っかかったりしちゃってたら……
 お願い、神様。心の中で祈りながら、窓の鍵に手をかけて、開ける。

 ──────。

 いなかった。
 脚から力が抜けて、その場にへたり込む。
 床の冷たさが、とても身体に凍みた。

 ──ガチャリ。
「ひゃあっ!?」
 心臓が止まるかと思った。
 慌てて振り向くと、入り口のドアが開けられてて、そこから差し込まれてる光が私を照らしてた。

「一葉?」
 懐中電灯を持った看護婦──遥さんが、部屋の中に入ってくる。
 見つかってしまった。
 恥ずかしいとかみっともないとかごめんなさいとかで、顔がかぁっと熱くなる。
 うなだれる私の眼前に、くしゃくしゃになった紙──さっき自分で投げたお兄さんへの手紙が突きつけられる。
 怒られる。そう思って目と口をきゅっと結ぶ。はぁ、という遥さんのため息が妙にはっきり聞こえた。

「全く……今日は許すが、こんな真似は金輪際するなよ」
「……はい……」
 ──え?

「じゃ、そこの悪戯娘を頼む。私はまだ見回りが残ってるからな。ああ、そこの窓も閉めといてくれ」
「分かりました」

 目を開けると、遥さんの脇にもう一人、誰かが立っていた。

「帰る時は私に声をかけろ。多分その頃にはナースセンターで待機してる。ただし、私以外には見つかるなよ」
「感謝します」
「一葉、いかがわしいマネをされたらすぐにコールを入れろよ。3秒でかけつけてやる」
「し、しませんよ! そんなこと!」

 「誰か」と言葉を交わしていた遥さんの足が、すっと動いて、部屋の外に出ていった。

 顔を上げると、あの人が笑いながら、こちらに手を伸ばしてた。
「一葉ちゃん……立てる?」
 嬉しくて、思わず抱きついた。

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「お、お兄さん……一葉、重く……ない?」
「いや、そんなこと無いよ」
 口元に浮かべられた笑顔が、間近にある。
 結局私は、ちょっと自分で立つことが出来なくて……お兄さんに抱き上げられてるんだけれど。
 ……お姫様だっこなんて恥ずかしいって何度も言ったのに。

 結局お兄さんは、私が投げ落とした紙を探しているところで、遥さんに見つかったんだって。
「あの時は、本気で殺されるかと思ったよ」
 大袈裟だなぁ、お兄さん。
 ……きっと、それくらいすごく怒られたんだろうな。
「ごめんね、お兄さん。一葉がわがままなことしたから」
「あ、いや。気にしなくていいって」

 お兄さんの笑顔。
 見慣れていたつもりだったけれど、こうしてすぐ近くから見ると、いつもとはまた違う感じで。
 なんだかとっても新鮮で。
 どきどきする。

「一葉ちゃん?」
「……え? な、なあに? お兄さん」
「いや、じっと顔見てるから、どうかしたのかなって。もしかして、何か付いてる?」
「う、ううん。そうじゃないよ。うん、なんでもないから」
「そうかい? ……さ、ついたよ」

 私はうなずいて、お兄さんに下ろしてもらうと、8号室のドアを開ける。
 部屋を飛び出した時に開けっ放しだった窓から、風が入り込んでカーテンを揺らしている。
 月の光でほんのりと照らされた部屋は、私の知っているいつもの部屋じゃないように感じた。

「くしゅっ」
 ベッドの上に座り込んだところで、身体の脇を通り抜けた風の冷たさに、ついくしゃみが出た。
 お兄さんがたたっと窓際に走り寄ると、開いていた窓を閉めてくれた。
「大丈夫? 一葉ちゃん」
「平気だよ。ちょっと汗かいて、身体が冷えただけだから」
「ああ、そうか。それじゃ着替えた方が良いんじゃ」

 お兄さんは急に黙り込むと、なんだか気まずそうにそっぽを向いた。
 私も、顔がかーっと熱くなってる。電気をつけたて鏡を見たら、きっとトマトみたいになってるんじゃないかと思う。

「あー、いや、その、決してやましい気持ちで言ったわけではなくて」
「わ、分かってるよ……だから、へ、変な弁解とかしないで。一葉まで恥ずかしくなっちゃうよ」
「そ、そうだよね。ゴメン。悪かった……そ、それじゃ、外出てるから、終わったら呼んで」
「え? だ、ダメだよ! 部屋の外に出てたら、誰かに見つかっちゃうかもしれない」
「ええ!? で、でも、だからって……」

 ………………。

「向こう、向いてて」
「う、うん。分かった」
「絶対に、絶対にこっち見ちゃやだからね」

 背中を向けたお兄さんと、ベッドをはさんで反対側。影に隠れるように床に座り込むと、私は大急ぎでネグリジェのボタンを外し始めた。
 急いで着替えようとしたけれど、後ろにいるお兄さんのことが気になったせいか、ボタンを掛け違えたり後ろ前に着てしまったりで、かえって時間をかけてしまった。
 途中で「見てないよね?」とか「こっち向いてないよね?」とかは、もう何度言ったか分からない。

 やっと着替え終わると、汗ばんだネグリジェを丸めてベッドの下の籠に放り込む。それからシーツの皺を簡単に直して、その上に座り込む。なんだかずっとドキドキしっぱなしだったので、一度深呼吸。

「……も、もう、いいよ……お兄さん」
「ああ……うん」

 (たぶん)ずっと背中を向けてたお兄さんが、私の方に向き直る。
 照れてるのか恥ずかしいのか困ってるのかよく分からない顔をしてた。

 私もまだ、顔に熱が残ってる感じがする。
 どこか気恥ずかしくて、何も言葉が出せない。
 お兄さんも、ずっと黙ってる。

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「あ、あのさ、お兄さん……」
 先に声を出したのは、私だった。
 なんだか、だんだん黙ってる方が恥ずかしくなってきて、とうとう声が出た。

「なに?」
「えっと……あの、ええとね」
 言い淀んで、私は困り果てる。だって、特に何か言おうとしたわけじゃないし。
 でも、また黙っちゃったらさっきと同じだし。何か言わないと、何か言わないと……。
 目を泳がせた先に、時計が目に入る。そういえば。
「お兄さん、どうしてこんな時間に病院に来たの?」

「え? ああ、そのこと?」
 窓から入る月の薄明かりで、お兄さんがくすっと笑うのが見えた。ちょっと子供っぽい笑い方。
 お兄さんの笑い方は何種類かあるけれど、この顔をする時はだいたい「ちょっとした失敗ごと」の話だ。
「それがね、夕食を作ろうと思ったら醤油が切れてて」
「……え。でも、お兄さんの近所で売ってないの?」
 確か、お兄さんの家はここから自転車で30分くらいだって聞いたことがある。いくら何でも一番近いお店がこの辺りなんてことは無いと思うんだけど。
「いやいや違うんだ一葉ちゃん。こう見えても醤油にはこだわりがあってね。この近所にある店にしか売ってない醤油なんだ」
「それで、醤油は買えたの?」
「いや。間に合わなかった。閉店も早くてねその店」
 両手を軽く広げて、ため息をつきながら首を横に振る。まるでテレビかマンガのシーンみたいな身振りがおかしくて、つい笑っちゃった。

 その後「自分で作るのが馬鹿らしくなった」ってその辺りのラーメン屋で食事をして(醤油にはこだわるのに栄養バランスは気にしてないんだから、おかしいなぁ)、ついでに本屋とかゲームセンターとかに行ってたらこの時間になったらしい。
「で、ちょっと病院の前でも通っていこうかなと思ったら、一葉ちゃんが見えたから。気付くかなーって手を振ったんだ」
 嬉しくて口元がむずむずした。

「でも、びっくりしたよ。いきなり窓から何か投げてくるんだもの」
「え、あ、それは……」
 一度うつむいてから、上目遣いでお兄さんを見る。まっすぐお兄さんの方を向くのは、恥ずかしくて無理だった。
 …………。
「……寂しかった、から」

 昼間は、お兄さんとか、お母さんとかが来てくれるから、寂しくないけれど。
 夜になると、私はいつもひとりぼっちになる。
 この四角くて青白い部屋の中に、私はいつもひとりぼっち。

「だから、夜は、嫌い」
 私は、窓の外をじっと見つめる。
 いつの間にか、あれほど体の中を満たしていた熱が、全部無くなってた。
 思いを口にしたら、お兄さんを見つける前まで感じていた悲しさが、全部ぶり返してきた。

 窓の外に立つ大樹の、枝に残った褐色の葉が、夜風を受けてゆらゆらとなびいている。

「私は、あの葉っぱみたいなもの。
 木の枝に一枚だけ、ぽつんと残った最後の一葉。
 昼間は小鳥が遊びに来てくれることもあるけれど、夜になれば必ずひとりぼっち。
 誰もいない。誰も見ていない。一枚だけ取り残された、あの葉っぱ」

 お兄さんが窓際まで歩いてきて、私と同じように葉っぱを見つめる。
 少し悲しそうな横顔をしてた。
 本当に悲しいのだとしたら、何を悲しんでいるのかな。
 ……私のことを悲しんでいるのかな。

 すると、お兄さんが不意に、私の方に向き直った。
「一葉ちゃんはひとりじゃないよ」
 目を少しだけ細めて、口元だけでちょこっと笑っている。
 時々する笑い方。その顔をする時のお兄さんは、そう……
 私がちょっと落ち込んだりしてる時に、優しく頭を撫でてくれる時の笑顔。
「君が最後の一葉なら……僕は」
 窓枠に手をかけて、お兄さんは夜空を仰ぐ。それから、夜空の真ん中に浮かぶ月を指し示した。

「僕は、月だ。
 夜になればああしてひっそりと、最後の一葉を見守っている月だ。
 夜の間は風にそよぐ一葉を静かに見守って、やがて地平の彼方に消えたなら……
 見守るだけのもどかしさに耐え切れずに、こうして君の前に現れる、月だ」

 ……………………。

 ………………ふっ。

「あはっ」
 なんだか、とてもおかしかった。
「あは、あはは、あはははは。
 お兄さん、それはちょっと、恥ずかしすぎるよ。あはは」
 こらえきれずに笑い始めると、後はもう全然止まらなかった。
 恥ずかしそうな顔をしてカーテンをしめるお兄さんの顔がまた不思議におかしくって、私は笑い続けた。

 笑いながら、涙が出た。
 この人の優しさに、涙が出た。

 私の笑い声を聞きつけた遥さんが飛び込んでくるまで、私はずっと笑い続けた。
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