「辞書と黒猫」

「ねえ、今宵」
 ん? と声のした方を振り向くと、「私、今すごくすごくすごーく困っているんです」と表情で雄弁に語っているつぐなが、覗き見るようにこちらを見ていた。
「どうかしたのか?」
「うん。ねえ今宵、私の辞書知らない?」
「辞書?」
 つぐなの問いかけを自分の声で反復し、一度首を傾げる。それから、すぐに今宵は思い出した。
「ああ、アレか。ちょっと借りてた」
「借りてた?」
 今宵の反応が、全く予想外のものだったのだろう。つぐなはいぶかしむのを半分、興味を半分混ぜ合わせる。
 何も言わなくても、彼女の黒い瞳は「どうして? 何に使ったの?」と今宵に訊ねかけていた。
「……あー、いや、ちょっとな」
「何か分からないことでもあったの? それなら私に聞いてみればいいのに。これでも色んな本いっぱい読んでるんだから、ちょっとは物知りだったりするよ」
「ん……まぁな」
 得意そうににこにこと笑うつぐなに対して、今宵はどうにも歯切れが悪い。
 その口元が、小さく、本当に小さく何某かを呟くが、蟻の足音ほどの声がつぐなの耳に届くわけもなく。
「で、何調べてたの? あ、もしかして、私に聞けないようなことだったりした?」
 屈託の無い態度のつぐなに、今宵は
「煩ェ。今返すから黙ってろ、莫迦」
 とうとう爆発すると、たたっとドアに向かって、自分の出入り用に作られた小さな出入り口から出ていってしまう。
「…………あー……」
 今宵の消えた扉に向かって情けない呟きを発すると、つぐなは僅かに肩を落とした。

「ったく、莫迦かアイツは」
 廊下をひたひたと歩きながら、今宵は一匹で愚痴る。
 そりゃお前なら、それなりには知ってるだろうけどな。口の中だけで呟いた言葉。
「だからって、聞けるわけねーだろうが。ったくあのバカは」
 彼女にさんざん当り散らしてから、不意に彼はうつむく。
「……で、俺はそれ以上に莫迦か」
 つぐなに向かって最後に吐き捨てた言葉を反芻し、今宵はふぅとため息をつく。

 彼女の辞書を持ち出してまで調べたのは、言葉の勉強だった。
 いつも、結局「煩ェ」「莫迦」「阿呆」と言って彼女を落ち込ませてしまう自分に、自己嫌悪を覚えていたから。
 もう少しやんわりと諭す為の言葉を捜そうとしていた。
「……ったく、聞けるわけねーじゃねぇか」
 しかし、その効果は全く無かったようで……やはり彼は、いつもの言葉を口走ってしまうのだった。
「莫迦」

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