『天使のたまごのそだて方』


「クー。実技課題です。
 今日の課題は、薬子さんにこの小瓶を届けることです」

   ミ☆

「前々から疑問なんですけど、これは本当に天使の仕事なんですかぁ」
 一人とぼとぼと道を歩きながら、少女は誰もいない空に向かってぼやいた。
 澄み切った青空は、しかし同じ名を持つ彼女に答えを返してはくれない。

 蒼井空(あおい そら)、愛称くー。独白の通り天使、正確にはその見習いであり、断じて郵便屋ではない。
 それでも、空は今日も今日とて「誰かへの届け物」をしていた。
「……魔女が届け物をするって伝承も聞いたことあるし、天使もそういうことをするものなのかな?」
 相変わらず天を仰ぎながら、空は眉を八の字に寄せる。
 自分に与えられた「演習」のことだけではない。天使になるために何をすればいいのか、先生は何も教えてくれない。
 こんなことをしていて、自分は本当に天使になれるのか?
 漠然とした不安が、彼女の肩から力を奪っていた。
「はー…………あの雲、あるゅう先生に似てるかも?」
 なんてぼんやりと宙を見上げながら歩いてるものだから。

 つまずいた。

「はわっ!?」
 足を一歩、さらにもう一歩踏み出して、崩れかけたバランスを立て直そうと試みる。
 全身にかかる地面へのベクトルを、両足で何とか踏みとどまって、耐えた。
「ふー。危なかった」
 いつもならなすすべ>もなく倒れるところを、今は踏みとどまることが出来た。
 見てくれていますかあるゅう先生! 私は日々成長しているんです! こうして努力を続けていれば、私だっていつかは天使に……!
 両手の拳をぐっと握り締めたところで、ふと、何かを忘れている気がした。
 そういえば。
「そうだ! 薬子さんに届ける小瓶ッ!」
 ぐしゃん。
 文字通り脳天に響く破砕音。
 衝撃に体をぐらりと傾げる空が最後に見た空の色は、やはりどこまでも青く澄んでいた。

  ☆彡

 うっすらと目を開ける。
「……群青色だ」
 あれほど真っ青だった空が、気が付けば夕焼けと夜空の境の群青色に染まっていた。
 ぼんやりとした頭で、空はその色を、なんとなく「綺麗だ」と思った。

「あ、気が付きました?」
 不意に、頭の上から声をかけられる。
 見上げると、見覚えの無い少女の顔が、逆さまになって自分を覗き込んでいた。
 それから、自分の頭の下にある、地面とは違う温もりと弾力のある感触が、彼女の膝であることに気が行った。
「……あのー、わたし……?」
「あ、はい。道端に倒れていたのを見つけたので、看護を」
 空は起き上がると、少女に向き直った。頭がくらりとしたところで、少女の差し出した手に支えられる。
 ありがとうとお礼を言ってから、空はようやく自分を助けてくれた少女を観察する余裕が出てきた。
 桜色の髪に赤十字をかたどった小さなアクセサリをつけた少女は、髪に似た桃色の大きな瞳で不安そうに自分を見つめている。
「あの……大丈夫ですか? 起き上がって」
「はい、大丈夫です。本当にちょっとクラッときただけですから」
 空はガッツポーズを作って、自分が元気であることを示そうとした。
 けれど、彼女はそれでも不安そうに、
「でも……あんな危険な薬、というかはっきり言って毒、頭からかぶってたんですよ? 本当に平気ですか?」
 そう言われて、空はちょっと首を傾げてから、
「あー。きっと私、天使だから平気なんですよ」
「て、天使?」
 目を丸くして驚く少女に、空は「正確には、見習いなんですけれどね」と苦笑すると、
「私、蒼井空って言います。天使学校の生徒なんです。今日も先生に出された課題を」
 空の笑顔が、不意に凍りついた。
「そうだー! 課題ー!?」
 がばっと立ち上がり、頭をぶんぶか振り回すと、目的の物が目に入った。
 薬子さんに届けるはずだった、今は半ばから砕け散っている小瓶。

 また、目の前が真っ暗になった。
 慌てて支えに入る少女の手が無ければ、おもいっきり頭を打っていたかもしれない。

   ミ☆

「というわけなんです……」
「はあ、つまり……今度こそ10000000点くらい減点されて、落第かもしれない、と」
 涙目の空は少女に向かってぶんぶんと頭を上下させる。
 まあまあと肩を叩かれて何とか落ち着くと、はあと嘆息して彼女はがっくりと肩を落とした。
「……やっぱり私、ダメなのかな。天使になるなんて、無理なのかなぁ……」
 膝を抱いて、その間に顔をうずめる。自分の情けなさに、涙が出た。
 何より情けないのは、薬子の元へ行くでもなく、先生の元へ戻るでもなく、今この場から一歩も動けないことだ。
「……もう、疲れたよ」


「そんな、寂しいこと、言わないで下さい」
 え、と空は少女の顔を見る。
 さっきまではよく晴れた日のお日様のようだった少女の表情が、今はどんよりと曇っていた。
「天使になるのが、ずっとずっとずーっと夢だったんでしょう? 空さんは。
 だったら、諦めないで下さい。最後の最後まで、自分の夢を捨てないで下さい」
 少女はまるでそれがとてもとても大切なことであるかのように、真剣な表情で空の顔を見つめている。
「でも……」


 ずっとずっと、天使になるという目標に向かって、努力してきたつもりだった。
 けれど、どれだけ頑張っても、いつもいつもそれが空回りしてしまう。それがたまらなく惨めで。
 疲れてしまった。零れ落ちた呟きは、正直な気持ちだった。
「本当に……私、もう……どうしたらいいのか……」


「私、幼い頃に命を助けてもらった人がいるんです」
 不意に耳に飛び込む、独白。
「その人は、幼い私にとって本当にヒーローっていうか、あ、女の人だからヒロインですね。
 とにかくとても素敵で、きらきら輝いて見えて……」
 いきなり何の話かと思った空は、少女の瞳の中の輝きを見て、ハッと気付いた。
 これはただの身の上話なんかじゃなくて。きっときっと、この人の中でとてもとても特別な。
「私はその時、決めたんです。いつかあの人のようになりたいって。
 そして、いつかあの人の前に立てるだけの自分になれた時に……伝えるんです。『私を助けてくれて、ありがとう』って」
 空がじっと見つめる先で、少女はすっかり夜の帳を下ろした空を振り仰ぐ。
 そして、まるでそこにとても眩しい何かが浮かんでいるように、目を細めた。


「空さんは」
「え?」
 突然話しかけられて、空は我に返る。
 さっき投げかけていた冷たい視線ではない、暖かい笑顔が、少女に向かって合わせられた空の視線を出迎える。
「空さんは、『天使になりたい』って思ったときのこと、憶えていますか?」
 少女は、座り込んだままの空の目の前に膝をつくと、両手を取って握り締めた。

 その言葉に、空は自分の脳裏に遥かな記憶を蘇らせる。
 天使になろうと決めた時のこと。
 天使学校への入学が決まった時のこと。
 あのときの、きもち。
 目の前に山と積まれた課題にばかり追われていて、いつの間にか忘れかけていた、あのときの気持ち。

「落ち込んでもいいから。立ち止まってもいいですから。疲れた時には座り込んでもいいですから。
 絶対に絶対に、希望と熱意を失わないで、前を見続けて下さい。
 辛いかもしれないけれど、苦しいかもしれないけれど。
 自分が目指したものを見失わないで、歩き続けて下さい」


「貴方の夢は、きっと叶います」


 その時、空は理解できた気がした。
 天使になるということ、とは。
 今目の前にいる、自分とほとんど年の頃の変わらなそうな少女のように。
 例え羽が無くたって、こうして目の前のひとに、輝く翼を見せられるような。


「ありがとう、ございます」
 空は笑い、
「どういたしまして」
 少女も、笑った。


「それじゃ私、一度あるゅう先生のところに戻ります。
 すっかり遅くなっちゃったし、きっと怒られるだろうけれど……これも天使になるためですからっ!」
「ええ。その意気ですよ、空さん」
「どうも、お世話になりました」
 空は少女に向かって深々とお辞儀をすると、来た道へと足を踏み出した。
 体半分振り返って、少女に向かっていつまでも手を振りながら、それでも決して立ち止まることなく。

  ☆彡

「さてと、私も行かないと。道草しちゃったし」
 彼女がきびすを返したその時。
「そうしましょう……それはそうと、貴方も言うようになりましたね、紗那」
「びびっびっびーだまくんっ!?」
 どこからともなくコロリと転がり出てきた白い球体の呼びかけに、少女……神谷紗那は途端に狼狽を見せる。
「い、いつからいたの!?」
「『寂しいこと言わないで下さい』の辺りからです」
「はぅ……戻って来てるなら教えてくれればいいじゃない……」
 にやにやと笑う球体の視線に、紗那はカーッと顔を赤くする。
 そこに先ほどまでの空を諭していた態度はどこにもなく、今はすっかり歳相応の照れ屋な少女の顔になっていた。

「それにしても」
 彼女が何とか立ち直ったところで、彼は幾分真面目な声色で、紗那に訊ねる。
「随分と親身になっていましたね。やはり……自分を重ねて見てしまいましたか?」
「ん……まあ、ね」
 それから彼女はふっと笑顔を浮かべると、だってさ、と続ける。
「同じ、夢に向かって頑張ってる人が苦しんでいるんだもの。放っておけないよ。
 私だって、本当は空さんに偉そうなことは言えない。さっきの空さんみたいに、へこたれそうなことだって何度もあったよ。
 だから、私と同じように夢を目指してて、それが辛くてつまずいちゃってる人がいたなら、応援してあげたい」


 それでその人が 立ち上がって歩き出せるなら。

 私も 自分の夢を もっと強く信じられるから。
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