「……今夜も、綺麗な月だなぁ……」
 千郷は呟いて、寺の屋根に身を横たえ、たった今自ら称賛した満月を見上げる。夜に冷やされた風が体に心地いい。
 いや、具現化してない今は風の温度を感じることは出来ないのだが、それでもきっと、こんなに月が綺麗な夜は、風も気持ち良いに決まってる。
 瞳を閉じれば、すぐにでも心地よい眠りにつけるだろう。魚匠などには「寝過ぎだ」と言われるだろうが。
 まぁー良いじゃん。私が寝過ぎて誰かに迷惑をかけることも……や、一人いることはいるが、今は呼ばれてないしー。
 心の中で誰にとでもなく言い訳をして、千郷は瞳を閉じる。
「お姉ちゃん?」
 途端、聞き慣れた童女の声に、千郷は頬を引き攣らせる。
「もう、何よ千柚。人がせっかく夜寝を決め込もうと……」
 瞳を開いてから、ちょっとドキリとした。
 満月を背景に自分の顔を覗き込んでいる千柚が、とても……美人に覚えた。
「どうしたの?」
「あーいや、何でも」
 千郷は動揺した顔を見せるまいと、上体を起こして妹から目を逸らす。正直にどうしたかなど告げたら、間違いなく調子に乗るに決まっている。
 ふうん、という声だけ。トーンからするとどうやら流してくれた模様で、千郷はひとまず安堵する。
 と、自分の隣に腰を下ろすのが、気配で分かった。ひとまず動揺は収まったので、千郷も視線を千柚に向ける。
「あんたこそ、どうしたの?」
「うん。実験がひと段落したから、今休憩中」
 笑顔で答える千柚。千郷はとても気の毒そうな顔をする。今自分がここで五体満足(?)にしているということは……
「魚匠……惜しい魚を亡くしたわね」
「死んでないわよ。私が加減を間違えるわけないじゃない」
 悪魔的(間違っても「小」なんてつけられないと千郷は考えている)な微笑。と、彼女は素の表情に戻ると、夜空に浮かぶ月を見上げて、まだ多少の幼さが残る大き目の瞳をわずかに細めた。
「それにね。とても綺麗な、大きな月が見えたから……何となくお姉ちゃんを探したくなってね」
 トクン、と千郷の胸が脈打つ。もう数え切れないほどの年月の彼方に仰いだ、あの夜の月が脳裏に浮かぶ。
 私が死んだ、あの夜の月も。そうだ、こんなに大きく、くっきりと見えた。
 それがたまらなく美しくて……涙が出たのを、今でも憶えている。
「……あの日も、今夜みたいなとても綺麗な月で……私はお姉ちゃんと一緒に見たくて、探したんだけれど……どこにもいなかったのよね」
「うん……」
「それで、次の日の朝、隣のおばさんから報せを聞いて……」
「うん……」
「お姉ちゃん。私、あの時……すごく、すごく悲しかったんだよ」
「実験台がいなくなったからね」
「うん、それはそうだけど」
 千郷は苦りきった笑みを浮かべる。千柚はくすくすと笑って、
「……でも、一人ぼっちになったあの時は、本当に……悲しかったわ」
「……うん」
 自分を追っての自殺。自分が妹を殺したようなものだと、千郷は自覚している。
 案外、私があの時成仏出来なかったのは、千柚の存在があったからなのかもしれない。心に残した一番大きなもの。あの時のそれは間違いなく、今は傍らにいる妹のことだった。
 だから、自分の亡骸にすがりつく千柚を見た時は、激しく心が痛んだし、再会した時は、正直なところ……ちょっとだけ、嬉しかったりもした。
「……ごめんね、千柚」
 ぽつりと、呟く。か細い声で。
「え? お姉ちゃん、何か言った?」
「……ううん、何でも」
 微笑んで、千郷は首を横に振った。千柚は、変なお姉ちゃん、と苦笑する。それから、
「で、前から知りたかったんだけど、お姉ちゃんはどうして、可愛い妹を放ってまで自殺なんかしたりしたわけ?」
「あーーっと、あの人からお呼びがかかっちゃったー。魚匠起こしてこないとねー」
 言うが早いか、千郷は立ち上がると、屋根瓦を軽やかに蹴った。ふわりと境内に降り立つと、逃げるように墓地の方へ走っていく。いや、事実逃げているのだろう。
 ずるいなあ、と呟いて、千柚は浮かせかけていた腰を再び落ち着ける。それから、先ほど姉がそうしていたように、屋根の上に仰向けになると、
「いいんだよ、お姉ちゃん。私が自分で決断したことなんだから。
 私はもうずっと昔……うん、お姉ちゃんにもう一度会えたあの時にはもう、お姉ちゃんのことを許してるんだから。
 だから、私が死んだことを気に病む必要なんて、お姉ちゃんには無いの」
 中天に煌々と輝く月を、眩しそうに見つめた。
「……なぁんて面と向かって言うと絶対に調子に乗るから、言わないけどね♪」
 あの日の夜も、今この夜も、月光は優しく、少女たちを包み込んでいる。
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