「うさぎとかめ」

 その日、今宵が散歩から帰ってくると、本を両手で胸に抱え、目を閉じて空を仰いでいるつぐなを発見した。
 すっかり見慣れた仕草。読み終えた本に感動した少女が、本に向かって感謝の気持ちを捧げている仕草だ。
「おう」
「あ」
 今宵が声をかけると、つぐなは振り向いて、ちょっと照れた顔を見せる。恥ずかしいならやらなきゃいいだろーがと今宵は以前に言ったことがあるが、そうもいかないらしい。
「面白かったのか」
「うん。すごくいい話だった」
 つぐなは満面の笑顔を湛えながら、抱いていた本をテーブルの上に戻した。
 その仕草を見ていた今宵は、おや、とばかりに片目を軽く開いた。つぐなが読んでいた本は、思いの他薄かった。そして厚さの割に妙に大きい装丁と、ちらりと見えた大きなひらがな。
「……絵本か?」
「うん」
 今宵は流石に呆れた。まさか絵本を読んでそんなに感動するか。幼稚園児じゃあるまいし。
 だが、よくよく考えて、ま、こいつならアリかと思い直した。コイツの妙に純真なところは、こういう時は妙に大したもんだ、と。
「で、何にそんなに感動したんだ」
「『うさぎとかめ』」
 つぐなの口から発せられる、ごくありふれたタイトル。
「ハッ、お前らしいな。大方『カメさん頑張ってゴール出来てよかったね』ってところか?」
 今宵の皮肉めいた物言いに、しかしつぐなは、ううんとかぶりを振って、
「そうじゃないよ。確かに、かめさんが最後まで頑張ってゴールしたのは、偉いと思う。
 でもそれ以上にこの話が素敵だと思ったのは、かめさんがうさぎさんと一緒に走ることになったとき。
 きっとこのかめさんは、誰かと一緒に走りたかったと思うの。例え遅くても、力いっぱい。
 でも、かめさんは足が遅いから……きっと誰も、一緒に走ってくれなかったと思う。
 そんな時に、うさぎさんと競走するって話になったかめさんは、きっととても嬉しかったと思う。
 走っているかめさんは、きっと走っているだけでとても楽しかったんだと思う」
 つぐなは、実に楽しそうに、その喜びがまるで自分のものかのように、笑う。
 お前そりゃ脳内補完しすぎだろうと言いかけた今宵は、その笑顔に圧されて、口を閉じた。
「きっとね、うさぎさんが先にゴールをしていても、かめさんは笑顔で言ったと思うよ。
 『うさぎさん、一緒に走ってくれてありがとう。やっぱり貴方は、とっても早いね』って」
 もう一度、つぐなは「うさぎとかめ」の本を愛しそうに抱き締める。
 彼女の瞳は、ずっと絵本の表紙を見つめていたから、今宵の変化には気付かなかった。だから、
「やっぱり莫迦だ。お前は」
 そう言った今宵に向き直った時、彼が呆れた顔で自分を見ている理由が分からなかった。
「どうして?」
「そりゃお前の願望だ」
 つぐなの表情が凍る。今宵の言葉が、深く心に突き刺さっていた。
「お前は自分がカメだと思ってる。ドジでノロマなカメだと思っていやがる。
 だから、その絵本のカメがそう見えたのさ。自分は楽しいんだ、ウサギに置いていかれたって、ウサギが駆け抜けていった道をのったりのったり歩くだけで満足だ。そう考えてると思うんだ。
 で、ゴールで待ってたウサギにお礼の言葉か? 莫迦莫迦しくて笑うことすら出来ねェ。
 カメがゴールした時にゃ、ウサギはもうどこにもいねェんだよ。自分がゴールした時に、帰っちまってるに決まってる。そういうもんだ」
 さらに言葉を継ごうとして、今宵はハッとなった。言い過ぎたかもしれないと思った時には遅かった。
 つぐなは、目を伏せてうつむいている。突き刺さった言葉を、ゆっくり、ゆっくりと、心の中に溶かし込んでいる。
 こういう時、彼女は泣くでもない。怒るでもない。
「……そう……だよね…………あは、は……」
 笑う。
 無理にでも、笑う。
 その笑顔があまりにも痛々しいから、今宵は彼女を見ていられなくて。
「莫迦」
 逃げる、しかなかった。

 二人とも、互いにそれから何も喋ることなく、時間は過ぎた。
 つぐなは先ほど床についた。今宵は窓から夜空を見上げる。
 そして彼は、ケッと悪態をついて窓辺から離れた。夜の黒と月の白が、今夜はどうしても過去を思い出す。

 月だけは、あの日からずっと変わらずに、この塔を照らしている。

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