ここは冥界、白玉楼。
 冥界を飛び越え、顕界にもその見事さが伝えられる、主人曰く二百由旬の広大な庭。
 今の季節は咲き誇る桜並木で一段とその壮麗さを増した庭の片隅に、彼女はちょこんと座っていた。
 楽隊を思わせる黒いベストとスカート、そして月をあしらった帽子のどこにも、樹上から風に乗って舞い降りた桜の花びらが積もり、彼女が長い間そこに座っていたことを示している。
 茫洋と、しかしどこか楽しそうな表情で空を見上げているその少女は、この庭を覆う絶え間ない桜吹雪の奥に、彼女がこの場に座ってから待ち続けていた二人の少女の姿を見つけて、控えめに手を振った。

「お待たせしました」
「お待たせされました」
 白い服の少女がちょこんとお辞儀をして、黒かった服の少女が頭を下げる。
「ルナ姉ったら凄い格好。全身真っ白で、メル姉みたいだよ」
「ちょっと違う。少し赤い」
 赤い服の少女がきゃっきゃとはしゃいで、黒かった服の少女が立ち上がり、黒い服の少女になる。

「それじゃ、準備開始」
「かいし〜」
 二人が持ってきた荷物を三人がかりで解体する。黒い服の少女がその場にさっとござを敷いて、白い服の少女が弁当と花見酒を広げ、赤い服の少女がござの中心からややずれたところに、年季の入った揺り椅子を置く。
「ああ、それも持ってきたんだ」
「これが一番良いと思ってね。あの子のお気に入りだったから」
 白い服の少女が微笑みながら自分のうなじに手をやる。服の下に収めていたロケットの鎖を外し、揺り椅子の上に置いた。
 その間に赤い服の少女が、グラスに酒を注ぐ。自分の分と、上の姉の分と、下の姉の分――そして妹の分。

「じゃあルナ姉。挨拶」
 赤い服の少女にそう言われると、黒い服の少女がきょとんとした顔で、
「挨拶? なんで?」
「お花見だから」
 当然じゃない、とばかりにそう言った赤い服の少女の声に、
「それも花見の趣よ〜」
 白い服の少女の、はしゃいだ声が続く。
「……で、私が?」
「こういうのは年長者の仕事」
「面倒な仕事ばかり押しつけられてる気がする」
 黒い服の少女は、目を細めてん〜〜と唸ってから。

「……じゃ、お花見開始」
「うっわ、盛り上がらない〜」
「らない〜」

 こうして、プリズムリバー姉妹の、姉妹による、姉妹だけのお花見は、実に低気圧な出だしで始まった。
 取り敢えず、ルナサはもくもくと弁当を食べ始める。何せ昨日から何も食べてない。
 メルランはにこにこと桜を見上げている。何せ昨日から楽しみにしていた。
 リリカはくぴくぴと酒を飲んでいる。何せ昨日から我慢してた。



 そして植木の影からは。
「ゆ、幽々子さま! あんな静かなプリズムリバー姉妹、見たことありません! なんだか怖いです!」
「ほらほら、騒がないの。邪魔したら悪いでしょ」
 そっと姉妹を見守る宴会場のオーナーと管理人。



「うん。メルランの料理は久しぶりだけど、上出来」
「ふふふ。ありがと〜」
 口をもぐもぐさせながらうんうんとうなずくルナサ。メルランがえへへ〜と嬉しそうに笑うと、リリカが酒の注がれたグラスを姉に差し出す。
「私が集めてきたお酒も誉めてよ」
 妹に促されるままに、すっきりと透き通った甘露の雫を一口。
「うんうん、美味しい」
「紅魔館のとっておきを出してもらったのよ」
 得意そうに胸を張りながら、リリカは姉のグラスにすかさず酒を流し込む。
「よくそんなのをもらえたわね」
「去年の夏のお仕事のツケ、まだもらってなかったから」
「ああ、なるほど」
 その時、ルナサが手にしたグラスに、ふわりと桜の花びらが落ちた。もちろん取り除けるなんて不粋なことはせずに、彼女はそのまま杯を傾け、花びらごと注がれた酒を飲み干した。
「お代わり」
「へへ、良い飲みっぷりですねぇ、お嬢さん」
 リリカが嬉々として、空になったグラスに新しい酒を注ぐ。その仕草を眺めながら、ルナサは楽しそうに目を細めた。
「リリカにお酌してもらうなんて、どれくらいぶりかなあ」
「晩酌だったら割としてる気がする」
「今日みたいにお花見だったら?」
「分からないなあ。お花見で近くに座ってること自体全然無いからねえ」
「いつも散り散りになるものね」
 メルランがひょいっと会話に飛び込んでくる。
「ん、桜は飽きた?」
「飽きないけど、今は姉妹の会話」
 既に空にしていた自分の杯をひょいと持ち上げて、メルランが差し出す。リリカがそこになみなみと酒を注いで、ルナサが自分のグラスを軽くぶつける。風だけが音を立てる白玉楼の庭に、チィンと澄んだ音が響いた。
「乾杯」
「乾杯」
「かんぱ〜い!」
 そこにリリカのグラスが突っ込んできて、ガチャンと少々けたたましい音を立てた。
「リリカ。少しこぼれた……」
「へへ、気にしない気にしない」
 姉と妹のやりとりをくすくす笑いながら見ていたメルランは、ふと自分の横に目をやる。
 屋敷から持ってきた揺り椅子は、今の姉妹たちと同じように桜の花びらをまとって、メルランにはそれが桜の柄の着物を着ているように見えた。
 その傍らに置かれたグラスに、彼女は自分のグラスをコツンと当てる。
「レイラも、乾杯」



「うーん。相変わらずびっくりするほど静かですね」
「妖夢、お庭の仕事は?」
「やってますよ。幽々子さまが朝餉を済ませている間に」



「ところでリリカ」
「へ、なにメル姉」
 口をもぐもぐさせながら答えるリリカ。ルナサが目を細めて「行儀が悪い」とたしなめるが、聞いちゃいない。
「お友達増えた?」
「ぶっ!!」
 リリカの口から放たれた鮮やかな弾幕を、メルランはひょーいとかわす。ルナサが目を細めて「汚い」と非難の声を上げるが、聞いちゃいない。
「い、いきなり何を言い出すのよ!」
「姉妹の会話〜」
「最近はリリカも、宴席で色んな奴と遊んでるぞ」
「色んな奴で?」
 ルナサの言葉にへぇーとうなずきながら、メルランは姉のグラスに新しい酒を注ぐ。
「最近だとー、ほら、ウサギ耳の。もう一匹のウサギ耳と一緒によく遊んでる」
「さすがルナサ姉さん。よく見てるわねー」
「そ、その話題やめようよ! ねえってば!」
 自分の服と同じくらいに顔を赤くしてリリカがわめくが、二人とも聞いちゃいない。



「う〜ん、ちょっといつものルナサたちっぽくなってきたかも」
「妖夢、お腹がすいたわ」
「あ、はい。ただいま」



 まったりまったりと酒を飲みお弁当を食べて、いつの間にか太陽もだいぶ傾き始めた頃。

「さっきの話だけど」
「ん?」
「お花見だったらお酌したのいつかなって話」
「ああ、それね」
「それでちょっと考えてみてね。そしたら思い出した」
「何を?」
「こうやって、姉妹だけでお花見をしているのっていつ以来なのかなってね」
「結構久しぶりよね」
「……たぶん、あの時以来よ。最後にレイラと一緒にお花見した時」

 少女達の間に、沈黙が降りる。
 色々な想いが三つの胸を去来して、複雑な表情を見せる。

「あれから、間もなくだったよね」
「……そうね」
「あれ以来なんだね……何だか、凄く懐かしい」

 三人の視線が、一斉に揺り椅子と、その上に置かれたロケットに注がれる。
 その中に収められているのは、三人が愛した一人の人間の肖像。
 そしてその椅子は、彼女が長年愛用していた、大切な大切な椅子。

 風が吹いて、椅子がゆらゆらと揺れる。
 一面桜吹雪の白玉楼はとても幻想的で。その中で揺れている椅子も、その幻想的な景色に溶け込んで。
 まるでそこに誰かが座っていて、ころころと笑っているように。
 桜の美しさは時に人を惑わすというが、たくさん集まれば騒霊だって惑わせるのかもしれない。

「久しぶりに……」
 ぽつりと、ルナサが呟いた。
 どうせなら、もう少し惑わされていようという想いに、心を委ねて。
「あれを、弾こうか」
 そう言って妹たちを振り向くと、二人はもう自分の楽器を手にしていた。
 考えることはやっぱり姉妹で似るものなんだな、とルナサはくすっと笑い、弓を手に取った。
 リリカの出す音に従って、二人の姉は手早く調律を済ませる。

「レイラを見送った、あの日以来ね」
「憶えてるかな。ちょっと不安」
「平気よ。だって私たちはプリズムリバーだもの」
 弦に添えられる指、管に添えられる指、鍵に添えられる指。
「あの子の作った、あの子の唄った曲を、忘れる筈が無いわ」



 日課である剣の素振りをしていた妖夢は、庭の一角から響く音に振り向いた。
 最初に覚えたのは、ああやっぱり、あの三人が集まればあの音が無いとダメだなという安堵。
 それから、彼女たちが弾いているのが彼女たちの十八番であることへの納得と好感。
 次に感じたのは、相違。それは気味の悪い違和感ではなくて、不思議な、本当に不思議な「何かが違う」という感覚。
 普段の賑やかな音色の代わりに聞こえてくるのは、よく晴れた朝の風景のような穏やかな音。
 普段の彼女たちの演奏からすれば、それは妖夢にはやっぱり、いつもと違う音だと思ったけれど。
 何故だか、今の彼女たちにはとても似合っているような気がした。

 プリズムリバー姉妹の様子が気になって彼女らの座っていた方へと足を向けると、そこには既に幽々子が立っていた。
 広げた扇で口元を隠し、感慨深い目つきで演奏にひたる姉妹を見つめている。
「あの、幽々子さま……?」
「ああ妖夢。素振りは終わったの? ご苦労様」
 幽々子は妖夢の方をちらりと見て、それからまたすぐに三姉妹を見やる。妖夢も主人と肩を並べて、彼女たちを見た。
 やっぱり、演奏している彼女たちの表情もだいぶ違う。
 宴会の時に見るような晴れやかな笑顔ではなく一様にしっとりとした喜び……いや、自分の中の想い出を懐かしんでいるような、優しい微笑を浮かべている。

「幽々子さま、お伺いしてもよろしいでしょうか?」
「何かしら」
「この曲、彼女らがいつも弾いている曲……で、合ってますよね」
 旋律だけを捉えるなら、彼女たちが奏でているのは、彼女たちの十八番の曲。いつもの宴でもたびたび耳にする音色だ。
 けれど、今の彼女たちの奏でている曲は、その曲であってその曲ではない。
 妖夢のそんな思いを、幽々子の声はそのまま言葉にした。
「そうとも言えるし、違うとも言えるわ」
 幽々子の瞳が閉じられる。彼女の表情もまた、懐古の色に染まっていく。
「以前にルナサに聞いたことがあるのだけど、普段彼女たちが弾いているのはアレンジなのよ。
 元々のメロディは、今私と妖夢が聞いている、この音色なのだそうよ――ひとつ楽器が足らないのだけどね」
「足らない?」
 妖夢は訝しげに主人を振り返る。三人の操る楽器の他に、この上足りないものがあるということを、彼女は知らなかったから。

「元々この曲を作ったのは、彼女たちの妹のレイラ=プリズムリバー。
 姉達への感謝の想いを綴ったレイラの歌に、姉達が応えて付けたメロディがこの曲なのよ」
 幽々子は白玉楼の庭に響き渡る音色に聞き入るようにそっと目を伏せ、静かに呟いた。

            Phantom Ensemble
「それこそが本当の『 幽 霊 楽 団 』」



 妖夢もまた瞳を閉じて、聴覚に意識を集中させる。
 ヴァイオリンもトランペットもキーボードも、互いの音色を慈しむような、誰かを慈しむような、そんな穏やかな響き。
 「残念ながら、私も完全版を聞いたことは無いのだけれどね」幽々子さまの注釈。
「私が聴いたのは、死出の旅路に向かうレイラを送って奏でられた、やっぱり三人だけのアンサンブルだったから」
 少し残念そうな声色。確かに、これほど見事な演奏がなお不完全だというのなら、自分も残念だと妖夢は

 ―――― ♪

「ッ!」
 妖夢は目を見開くと、幽々子の袖をがしっと掴んだ。
「幽々子さま! 幽々子さま、今!」
「妖夢、静かになさい。彼女たちの邪魔に」
「今、歌が聞こえました!」

 そんな馬鹿な、と幽々子は妖夢を振り返り、少女の真剣な表情を見つめた。
 妖夢は普段から冗談を言うような性格ではないし、ましてやこんな時に冗談を言うような性格では断じてない。
 今もその例に漏れず、自分は確かに聴いたのだと信じ切った目で主を見ている。
「……そうですよ、ここは白玉楼なんですよ。彼女たちの妹の霊も、きっと今ここに」
 そう言って周囲をきょろきょろと見回す妖夢に、しかし幽々子はかぶりを振る。
「あり得ないわ。だってレイラはとうの昔に成仏しているんだもの。ここに彼女の霊が現れる筈が」



 彼女は次の句を継げなかった。
 継ごうとした声を、驚きで飲み込んでしまったから。
 彼女の耳にも、確かに……姉を想う妹の歌声が、聞こえたから。

「現れる……筈が……」

 一際強い風が吹いて、枝についた桜の花びらと、地面に積もった桜の花びらを一斉に巻き上げる。
 一寸先も見通せなくなるような桜吹雪の中で。

 幽々子は、揺り椅子に寄りかかって笑う少女の姿を見た気がした。
 幽々子は、揺り椅子にもたれて微笑む老婦人の姿を見た気がした。

「……現れる筈が、無いわ」
 風が収まり、たくさんの花びらがひらりひらりと舞い落ちる。
 それが折り重なる揺り椅子の上には、やっぱり誰もいなかった。



 桜の美しさは時に人を惑わすと言うが、たくさん集まれば半幽霊も亡霊も惑わすのかもしれない。
 あれはきっと、桜の花が見せた幻像、聴かせた幻聴だったのだと、幽々子は考えることにした。

 桜の花に囲まれて、旧き懐かしき騒霊の響きは、いつ果てるともなく続く。
 桜のように咲き誇り、桜のように散っていった、桜のように美しい想い出を胸に。






 「今日の花見に君を見て」 - Prismriver's Flowering Fest. -

                      - 了 -

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