春も半ばを過ぎたその日。
 珍しく顕界へとあらわれた彼女は、ゆらゆらと舞うような身運びで空を飛んでいた。
 彼女の手には何種類もの花の束。それを枯らしてしまわないように、大切そうに抱えている。
 目的の場所に辿り着くと、彼女はふわりと地面すれすれまで降りていく。
 そして、目の前の屋敷の重厚そうな扉を、とんとんと優しくノックした。

 扉が開く。そして彼女の目に飛び込んでくる、黒と白と赤。
「お待ちしておりました」
 丁寧に頭を下げる黒い服の少女。
「いつもお世話になってま〜す」
 その後ろで気安い挨拶をする赤い服の少女。
「うっわー! すっごいお花!」
 白い服の少女は、客の抱えた花束に目を丸くしている。
「ご主人のところへ、通していただけるかしら?」
 そう言うと、3人は「どうぞこちらへ」と、客人であり友人である彼女に笑顔を見せながら屋敷の奥へと促した。
 黒い服の少女だけは、笑みの中にほんの少し寂しさが混じっていたけれど。

 小柄な少女であれば3人寄り添って寝られるくらい大きな天蓋付きのベッドに、老女は横たわっていた。
 丁寧に梳かれた雪のように白い髪、過ぎた時間の長さを年輪のように刻んだ顔の皺。
 ベッドの周囲には美しい花々や絵画、そしてその中で一見不釣り合いにも見える、小さな子供のための絵本や玩具。
 寝室の片隅では、奏者のいない楽器が身を震わせ、静かな音色を奏でている。

 部屋に入ってきた客人の顔を見て、老女は一瞬驚いたように目を開き、それからとても嬉しそうに顔をほころばせた。
「まあ、まあ、まあ……まさか貴女に脚を運んで頂けるなんて……」
「当然よ。貴女のお姉様たちには、私も楼閣の皆もいつもお世話になっておりますもの」
 抱えていた花を3人の少女たちに預けて、彼女はベッドの傍らに歩み寄る。
 そして、ベッドから起きあがった老女を腕の中にふわりと抱き締めた。
「ようこそいらっしゃいました。西行寺幽々子さま」
「ええ……レイラ=プリズムリバー、最期に一目、貴女に逢いに」

 レイラ=プリズムリバーと西行寺幽々子は、たった一度だけ面識がある。
 まだレイラが幽々子と同じくらいの少女だった頃、「一度お会いしたい」とレイラが願い、幽々子もそれを承諾したのだ。
 騒霊であり確たる存在を持たない彼女の姉達はたやすく冥界の結界を越えられるが、生ある存在であるレイラはその結界を通ることが出来なかった。
 だから、幽々子がこちら側に顕れることで、一度だけお互いに顔を合わせた。
「お久しぶりです……貴女はあの時と、全然変わっておりませんね」
 西行寺幽々子はその頃と変わらぬ、少女の風貌を保っており。
「貴女はとても可愛いおばあちゃんになったわ」
 レイラ=プリズムリバーは人の定めとして、その後の時の流れを身体と心に刻んでいた。

「ほら、レイラ」
 彼女の姉たち、メルランとリリカが、両手に持った花束をレイラのベッドの側に新たに添える。
「白玉楼の庭のお花を持ってきて下さったんですって。冥界の花よ。凄いでしょう?」
「ええ、とっても」
 幽々子と抱擁を交わし、再びベッドに横になったレイラは、うなずいて目を細めた。確かに冥界の花は、地上の花とは微妙に違った色彩を放っているように見えた。
「こんな素敵なお花をありがとうございます」
 ルナサが持ってきてくれた椅子に腰掛け、幽々子はレイラの顔を覗き込みながら。
「いいえ。大した物ではございませんが」
「そんなことはありませんわ。それに、白玉楼には腕の良い庭師さんがいるのでしょう? 姉達から聞かされております」
「とんでもない。粗忽で融通の利かない頑固者で毎日辟易しております。幾度貴女のお姉様と取り替えてもらおうと思ったことか」
「まあ」
 二人は顔を見合わせ、そしてくすくすと笑い合う。外の空気と同じ、春の日だまりのような暖かさが、部屋にあふれる。

 幽々子は目の前の老女の笑顔をとても快く思う。
 彼女が笑顔をつくると、顔の皺はそれに吸い込まれて、溶け込んでいく。
 笑みの形に沿って皺が刻まれている。
 その皺が、一度出会った時から経た数十年間のレイラの人生がどのようなものだったのかを物語っている。
 愉快な姉達に囲まれて、それはそれは素敵な日々だったのだろう。きっと、いや、間違いなく。

 そして今。
 素敵な日々を積み重ねることを、彼女は静かに終えようとしている。

「幽々子さま」
 ふと気付くと、レイラがじっと幽々子の顔を見つめていた。
「何かしら?」
「私は、私をお迎えに来て下さったのが貴女で、本当に嬉しいことだと思っていますわ」
 幽々子には、その言葉の意味が最初分からなかった。もちろん幽々子は彼女を白玉楼に連れて行くつもりなど無かったから。
 少し考えて、レイラが誤解しているのだと気付く。
「迎えに来たのではないわ。私は、貴女に逢いに来たのよ。レイラ」
 幽々子は冥界の姫であり、死を操る程度の能力を持つ。
 姉たちよりそれを伝え聞いていたから、レイラは幽々子が自分を冥界に迎えに来たと思っていたのだろう。
 だが、幽々子の能力は、同時にそれより先への道往きを閉ざす能力でもある。
 彼女によって死なされた者は、成仏することなく冥界の住人となる。新たな命として転生することなく、永遠に彼の世に留まる存在となるのだ。

「それとも」
 広げた扇で口元を隠し、幽々子は伏せた目をレイラに向ける。
「貴女はまだ、顕界に心残りがあるのかしら? 幽霊になってでも留まり続けたいと願うような理由が?」

「心残り……」
 幽々子の言葉を自分の口で繰り返して、レイラは瞳を閉じて考える。
 脳裏に蘇る、遙か遙か昔の出来事。
 涙を流しながら自分との別れを惜しみ、屋敷を出て行く「姉」たちの姿。

 二人の間に広がった沈黙は、けれど間もなく追い払われた。
「ありませんわ」

 最初は分からなかった。屋敷から去っていった姉達が何故目の前にいるのか。
 けれど、過ぎていく時間の中で、彼女は自分の選択とその意味も、いつしか理解していた。
 今ここに自分がいるのも、今ここに姉たちがいるのも、全ては私の望み。
 そしてその望みは、これ以上ないという程に叶えられているではないか。

「ありませんわ」
 そう答えたレイラ=プリズムリバーの顔は実に穏やかで。
「『姉』達と共に、とても素晴らしい人生を過ごせましたもの……これ以上を望んだりしたら、罰が当たってしまいます」
 だから西行寺幽々子も、桜が咲いたような顔で笑った。

「ふう……ごめんなさい。久しぶりに長いこと話したものだから、少し疲れてしまいましたわ」
「あらあら。私こそごめんなさいね。もっと気を遣ってお話をするべきだったわ」
 幽々子が立ち上がり、レイラにかけられている布団を優しく直してやる。
「すみません。せっかく幽々子さまがいらっしゃっていますのに……」
「気になさらないで。ゆっくりお休みになって下さいな」
「ええ……では、お言葉に甘えまして」
 小さく息を吐いて、レイラは柔らかな寝具に自分の身体をゆだねて、ゆっくりと瞳を閉じる。

 室内に奏でられていた音曲が、かすかに乱れる。
 演奏に混じって、細く小さく、押し殺した泣き声。
 それでも楽器を奏でるのをやめない彼女たちを、幽々子は立派だと思う。
 最後まで、最期まで、彼女の愛した音色を絶やすことなく送り続ける彼女たちを立派だと思う。
 それほどに彼女は愛されたということ。
 それほどに彼女は愛していたということ。

 最後にもう一度、幽々子はレイラの顔をじっと見つめる。
 まるで幸せな夢の中にいるような安らかな笑顔を浮かべて、彼女は眠っている。
 だから幽々子は彼女を起こさないように、小さな声でそっと囁いた。


「おやすみなさい」


 巡り巡り巡りて巡る生命の中で。
 この少女は次にどんな夢を見るだろう。

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